第28話 灯台の夜
前回:「第27話 秘匿契約の解約条項」
◆この夜のことだけは、あたし――レーヴェが話す。
灯台への崖道は、夜に登るようにはできていなかった。でも、迷わなかった。頭の上で、あの灯りがずっと、道を照らしていたから。三十年間、夜の海の全部の船にしてきたのと同じことを、灯りは、崖道の女剣士一人にも、していた。
扉を叩くと、返事の代わりに、上から声が降ってきた。
「油売りなら裏へ。……って、あんた、前に来た魔法使いの連れかい。こんな時間に、何の用だ」
「話をしに来た。……武器は、持ってきてない。あと、あたしは調停者だけど、今夜のは仕事じゃない。仕事じゃないから、報告書にも書かない」
しばらく沈黙があって、それから、錠の開く音がした。
「……海が荒れそうだ。入んな。茶ぐらいは出す」
海は凪いでいた。この人の「海が荒れそうだ」は、人を追い返せない時の、決まり文句なんだと思う。
灯室の茶は、前と同じで、驚くほど丁寧に淹れてあった。あたしは、回りくどいのが苦手だ。だから、湯呑みを置いて、最初に全部言った。
「シアさん。あたしたちは多分、あんたが誰か、知ってる。確かめに来たんじゃない。名乗らせに来たんでもない。……ただ、あんたの三十年の話を、聞きに来た。聞くだけ。それが、あたしの仕事だから」
シアさんは、長いこと、あたしを見ていた。砦の目で。値踏みじゃない。あれは、三十年ぶんの「どこまで話していいか」の測量だった。あたしは目を逸らさなかった。逸らしたら、この人はまた三十年、砦に戻る。それから、ふ、と息を吐いて、灯りの油を足しながら、ぽつりと言った。
「……変な客だね。三十年で、一番変だ」
茶を待つ間、あたしは灯りの手伝いを申し出た。断られると思ったら、「なら、そこの芯切り鋏を」と道具を渡された。手つきを三秒見て、あの人は言った。「……いい手だ。道具を持ち慣れてる手だね」。剣です、とは言わなかった。今夜は、剣の話の夜じゃない。
その夜、あたしたちは、灯りの番をしながら話した。正確には、あの人が話して、あたしが聞いた。あの人は一度も「私はセラフィナだ」とは言わなかった。あたしも一度も聞かなかった。ただ、灯台守シアの三十年を、あの人は初めて、声に出した。
最初の冬に、指が凍って灯りを落としかけた話。爺さんに教わった、油の温め方。麓の村の子が初めて「シア様」と呼んだ日、自分の呼び名ができたことに、湯呑みを取り落とすほど動揺した話。……三十年は、悲劇の三十年だけじゃなかった。暮らしの三十年でもあった。人は、償いの中にも、暮らしを建てる。それがちゃんと分かる話し方を、あの人はした。
灯室の柱に、刻み目があった。数えきれないほどの、細かい線。
「荒れた夜に、無事に通した船の数だよ。凪の夜のは数えない。灯りがなくても通れた船を数えるのは、ずるだからね。……最初の年は十二。次の年は九つ。一番荒れた年は、三十一」
三十年分の柱は、線で真っ黒だった。あたしは、その線を、一本ずつ目でなぞった。線の一本一本の向こうに、沈まなかった船と、帰りを待ってた家族がいる。この人は三十年、命の帳簿を、柱に付けてきたんだ。
棚の櫛の話も、あの人は自分からした。あたしが見てるのに、気づいてたんだと思う。
「……何度も、捨てようと思った。海に返そうと思った。でもね、駄目だった。これを捨てたら――これを持ってた女が、ほんとうに、死ぬ気がして。おかしいだろう。とっくに死んだことになってる女のくせに」
「おかしくないよ」
「北の王様はね」あの人は、灯りの向こうの、北の闇を見た。「独り身を通してるんだと。三十年。部屋を、残してるんだと。行商や船乗りが、噂話をしていくんだ、この灯室で。あたしは灯りの油を足しながら、聞くともなしに聞いてきた。……馬鹿な人だ。三十年も。とっくに、忘れていいのに」
「あんたが言う?」
「……言えた義理じゃ、ないねえ」
あの人は、笑った。笑って、それから、長いこと、黙った。灯りが、規則正しく、回っていた。沈黙が重くならないのは、灯りの音のおかげだった。この灯室の三十年は、きっと、こういう夜の積み重ねなんだ。
あたしは、泣かなかった。三十年分の話は、あたしの涙腺には、正直、限界の三倍くらい重かった。でも、泣かなかった。今夜のあたしの涙は、この人の三十年を受け止める器には、軽すぎるから。泣くのは、全部終わってからだ。まとめて、やる。
代わりに、あたしは、二つのことを話した。
一つは、セレンさんのこと。開戦宣誓を書いた法術士の、父親のこと。三十年前の出港の朝、手続きの窓口にいた、マルクという若い書記官のこと。沈没の責任を問われて、潰されて、名のつかないまま死んだこと。その娘が、「曖昧さが父を殺した」と言って、定義された戦争を書いたこと。
シアさんの湯呑みを持つ手が、止まった。
「……マルク。……ああ。……ああ、覚えてる。覚えてるよ。出港の朝、手が冷えて震えてたあたしに、『規則ですので』って顔で、手続きを一つ余分に増やして……その間に、白湯を持って来させてくれた人だ。優しさに、手続きの顔をさせる人だった。……あの人が。あの人の、娘が」
あの人は、両手で顔を覆った。あたしは、何も言わずに、待った。灯りの油が、じ、と小さく鳴った。三十年、自分の生死だけを抱えてきた人が、初めて、自分の「死」が他の誰かの人生に落とした影の、続きを知ったんだ。重いなんてもんじゃない。でも、知らないままでいさせることは、あたしには、できなかった。
もう一つ、あたしは、大潮の日の話をした。和平の宣誓書のこと。受理には、両国の民の本心が要ること。そして、バウ爺さん――名前は言わなかったけど、「あの夜の船の生き残りが、もう一人、証言台に立とうとしてる」ことを。
「……もう一人」湯呑みの中の茶が、微かに、揺れた。「生き残りが。あの夜の」
「うん。三十年、あんたと同じ重さを、別の場所で担いできた人。……その人も、一人で決めたよ。誰にも、こじ開けられずに」
夜明けが近くなって、あたしは立ち上がった。最後に、一つだけ言った。傾聴の締めじゃない。あたし個人の、ただの意見だ。
「シアさん。あんたの柱の刻み目、あたしの連れの事務屋なら、三十年分、きっちり帳簿にできるよ。荒れた夜に助かった船の数、船に乗ってた人の数、その人たちの子供や孫の数まで。……で、その帳簿ができたらさ、それはもう、償いの帳簿じゃないんだ。功績の帳簿なんだよ。うちの聖女も、同じこと言ったでしょ」
「…………」
「三十年前に沈んだ人たちを悼むことと、三十年生きてきたあんたが、これから幸せになることは――両立するんだよ。どっちかを選ぶ話じゃ、ないんだ。両方やってる人を、あたしは西の大陸で、何人も見てきた」
あたしは、扉を開けた。潮の匂いのする夜明け前の風が、灯室に流れ込んだ。
振り返らなかったけど、閉まる扉の隙間から、一つだけ見えた。
シアさんの手が、棚の上の、白い貝の櫛に――伸びるのが。
崖道を降りて、堤防のところで、あたしは少しだけ泣いた。少しだけだ。まとめてやる分の、前借りってことで。
空が白み始めて、灯台の灯りが、夜の仕事を終えて細くなった。三十年間、毎朝ああやって細くなって、毎晩また灯ってきたんだ。今夜のことで何かが変わるのかどうか、あたしには分からない。でも、一つだけ確かなことがある。今夜、あの灯室で、灯台守シアの三十年は、初めて、聞かれた。聞かれた話は、もう、独りぼっちの話じゃない。
次回「第29話 バウ爺の決断」は、9月30日(水)18時30分更新です。




