第27話 秘匿契約の解約条項
前回:「第26話 セレンの三十年」
バウ爺の証言なしに、和平は受理されない。だが証言は、秘匿契約の封の中にある。この矛盾を、俺たちは三日、抱えていた。仲間内の空気は重く、特にエルシーは、食事の量が目に見えて減っていた。だから俺は、あえて全部を、机の上に広げることにした。問題は、隠すと腐る。広げると、乾く。
「――というわけで、改めて全員で確認する。告解秘匿契約、第三条」
宿の机に契約書の写しを広げ、俺は自分の書いた条文を読み上げた。
「『秘匿の解除は、懺悔者本人の申し出によってのみ、行うことができる』。……例外規定、なし。緊急避難条項、なし。第三者の利益による解除、なし。『大陸の平和のため』みたいな大義名分の穴も、掘ってない。起草者として断言する。この条文に、穴は、ない。大義名分ってのは、穴の別名だからな。書いた当時の俺は、正しかった。正しさが、今、こっちの喉元に刺さってるだけだ」
「自分で書いた条文の完璧さに苦しめられる男、ここにいます」とミラベル。
「うるさい。……一応、全部の抜け道を検討した。徹夜でだ。窓口五年、契約の穴を探す側も塞ぐ側も、両方やってきた。その全部の手口を、自分の条文に試した。結論から言う。全滅だ。順に見せる。まずベッシ。精霊界の側から、解除できないか」
ベッシは机の上のインク壺の前で、ふるふる、と全身で首を振った。それから契約書の第三条の上にちょこんと座り、自分の体をぺたりと押し付けた。割り印。つまり「自分も契約の当事者であり、縛られている」の意思表示だった。精霊は、契約を破らない。破らないから、この大陸の契約は力を持つ。根っこの原理を、俺たち自身が一番利用してきたのだ。
「次。契約の無効主張。締結時の瑕疵……ない。俺が起草して、エルシーが立ち会って、ベッシが受理した。完璧な契約だ。畜生、過去の俺、いい仕事しやがって」
「私の力技案は?」とミラベル。「ほら、精霊界ごと説得するとか。上位精霊に直談判して」
「上位精霊が契約を曲げたら、この大陸の契約制度が根っこから崩れる。誓いの信用で回ってる経済ごとだ。却下」
「だよね。言ってみただけ」
「あたしの方は?」レーヴェが手を挙げた。「シアさんの話は、あたし、契約の外で聞くことになるかもしれない。その場合……」
「契約の外でも、同じだ。人の三十年を、本人の許しなく開ける権利は、契約があろうがなかろうが、誰にもない。……あんたなら、言われなくても分かってるだろ」
「うん。確認しただけ。……あたしの流儀と、あんたの条文が、同じでよかった」
「期間満了は」
「期間の定めなし。つまり満了しない。準拠法の争いも無理だ、精霊契約に国境はない。……第三者のための解除も、公益免責も、書いてない。書かなかったんだ、俺が。懺悔者の保護に、例外を作りたくなくて」
「リドさん」
エルシーが、静かに口を開いた。ここ数日、一番言葉の少なかった彼女が。
「抜け道は、探さなくて結構です。……仮に、契約に穴があったとしても。仮に、条文が一枚もなかったとしても――私は、言いません。告解で預かった言葉を、預けた人の許しなく開くくらいなら、私は聖印を返します。それが、告解というものですので」
部屋が、静かになった。
「制度が私を縛っているのではありません。私の仕事が、私を縛っているのです。そして私は、この縛りを、誇りに思っています。……ですから、責めるなら契約ではなく、私を」
三年前、竜の横領の監査で、彼女は懺悔の個別の中身を一度も明かさなかった。三百年分の魔王の告白も、彼女の中にだけある。この人の手帳と胸の内には、大陸二つ分の秘密が眠っていて、その錠が錆びたことは、一度もない。責める者など、この部屋には最初からいなかった。
「誰も責めてない」
俺は、契約書を畳んだ。
「むしろ、はっきりした。俺たちは最初から、鍵を壊す話をするべきじゃなかったんだ。制度ってのは、心を運ぶ器にはなれる。だが、心を製造することは、できない。……シアさんとバウ爺さんが、自分の意志で語る。道は最初から、それ一本しかない。俺たちにできるのは、二人が扉を開けたくなった時に、扉の外が安全であるように、条文で整えておくことだけだ」
方針が定まると、部屋の空気は、目に見えて軽くなった。エルシーの背筋が戻り、夕食の量も戻った。制度の限界を全員で確認する会議というのは、一見後ろ向きだが、実は逆だ。「やってはいけないこと」の線を引き終えて初めて、人は「やるべきこと」に全力を出せる。
俺はその晩、和平宣誓案に一条を書き足した。第二十四条・真実和解条項。『三十年前の海難に関し、真実の解明のために証言する者は、その証言内容につき、両国いずれの法によっても訴追されない』。扉の外の、足場だ。書きながら、思った。三年前、様式第一号を書いた夜と同じだ。誰かが「辞めたい」「言いたい」と思った瞬間に、紙の側の準備が全部できていること。それが事務屋の、唯一の戦い方だ。
作業をする俺の横で、ミラベルが『黎明』の詠唱書と首っ引きになっていた。
「進みは、どうなんだ。『黎明』」
「詠唱文の解読は、九割終わった。でもさ、変なんだよ、この魔法。火力の記述が、どこにもない。『終焉』は全節が出力の積み上げなのに、『黎明』は……何て言うか、全節が『呼びかけ』でできてる。眠ってるものを起こすというか、閉じてるものに『開いていい』って言うというか。……撃つ魔法じゃないのかも、これ」
「撃たない超級魔法か。詠唱十三分もかけて。……贅沢な様式だな」
「でしょ。誰が何のために書いたのか、それも謎でさ」
「うん。だからこそ、気になる。ねえ、リド。ちょっと聞いて。『黎明』の最終節なんだけど……『終焉』は『我、終焉の名のもとに』で閉じるでしょ。『黎明』は違うんだ。『――今、すべての聞く者に問う』で終わってる。問う、で終わる魔法なんて、聞いたことない。聞く者って、誰のこと? 精霊? それとも……」
「詠唱を、聞いてる奴ら全員、とか?」
「まさか。詠唱を最後まで聞く物好きなんて、世界のどこに――」
言いかけて、ミラベルは黙った。手帳を出して、何かを数える仕草をした。復興祭の広場の人数でも、数え直していたのかもしれない。
言いかけて、黙って、数えて。西大陸の、復興祭の広場を、思い出したのかもしれない。九分五十一秒を、祭の呼び物として「待って」いた、あの人垣を。
彼女が何かを掴みかけた、その時。ずっと窓の外を見ていたレーヴェが、立ち上がった。腰の剣を――外して、壁に立てかけた。
「行ってくる」
「……灯台か」
「うん。あたしの仕事だ。あの人の扉は、条文じゃ開かない。契約でも、推理でも。……人が、会いに行かなきゃ。三十年、誰も『シアさん本人』に会いに行ってないんだよ。灯台守には、みんな会いに行った。守り神さまにも。でも、あの人自身には、誰も」
「剣は」
「置いてく。今夜のは、果たし合いじゃないから」
「気をつけてな。……いや、違うな。ゆっくりで、いい。朝までかかっても」
「うん。多分、朝までかかる。三十年ぶんだもの」
扉が閉まった。俺たちは、誰も引き留めなかった。三年間で学んだことの一つだ。剣聖が剣を置いて出ていく夜は、彼女の一番大事な仕事の夜である。
次回「第28話 灯台の夜」は、9月29日(火)18時30分更新です。




