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第26話 セレンの三十年

前回:「第25話 誓約法廷」

その夜、俺とセレンは、法廷の書庫にいた。敵対する起草者が仲良く机を並べている理由は単純で、首席判事から宿題が出たからである。「両案の対照表を、両起草者の連名で、明朝までに提出せよ」。敵同士に共同作業を命じる老判事の顔は、大変に楽しそうだった。人が悪い。


 書庫の卓に着く時、彼女は自分の道具を、決まった順に並べた。ペンが三本、右上。インク壺、その左。吸い取り紙、手前。定規、縦に。……俺の並べ方と、鏡写しだった(俺は左利きではないので、正確には同じ配置だ。つまり、完全に同じ流儀ということである)。互いにそれに気づいて、互いに何も言わなかった。言うと負けな気がした。


 燭台の灯りの下、対照表は着々と埋まっていった。書庫の窓の外では、法廷前の広場の灯りがひとつ、またひとつと消えていき、最後には俺たちの燭台だけが残った。大陸の運命を分ける二つの草案が、敵同士の手で、一枚の表に並べられていく。歴史的な夜のはずだが、やっていることは、窓口の残業と大差なかった。歴史というのは、たいてい、誰かの残業でできている。俺たちは口論しながら作業すると、恐ろしく速い。「第十二条、貴案の用語は曖昧」「曖昧じゃない、包括的と言え」「では包括的に直しなさい、三文字で」「……直した」「早い」――この調子である。途中、彼女の差し入れの茶が俺の流儀と同じ濃さで、俺の持参した夜食の堅パンを彼女が「歯応えが思考に良い」と評した。敵に回すと厄介な人間は、隣に座らせると、恐ろしく仕事が捗る。世界の法則である。


 第三十条まで埋めた頃、俺は、ずっと引っかかっていた一枚の条文を、卓の上に置いた。開戦宣誓案・第四十二条。


「……これ、あんたの宣誓書で、一番異質な条文だ。『戦没者記録条項。両国は交戦による全ての死者の氏名を、身分・軍民の別なく共同の名簿に記録し、毎年、両国の広場で読み上げる』。……戦争の設計図の中に、一つだけ、弔いの条文が埋まってる。これは、誰のための条文だ」


 セレンは、ペンを置いた。長い沈黙のあと、彼女は、昼間の野次の続きを、自分から話し始めた。


「――私の父は、マルクといいます。リズレア王室港湾庁の、書記官でした」


 語り口は、証言のそれだった。日付、役職、手続きの名称。感情の言葉を一つも使わずに、彼女は自分の三十年を陳述した。感情を排した陳述ほど、聞く側の胸に、感情が積もる。それを知っていてやっているのか、そうとしか話せないのか。……多分、後者だ。そして、そうとしか話せなくなるまでに、この人が何度この話を独りで反芻してきたかを思うと、相槌の打ち方ひとつ、間違えたくなかった。


 三十年前、花嫁の船の出港計画を承認したのは、父の印だった。航路は当時の海図通りの、標準航路。手続きに、一点の瑕疵もなかった。だが船は沈み、犯人探しが始まり、藪の中の真相の代わりに、人々は「印を捺した者」を見つけた。


「父の書斎を、覚えています。査問の三年の間も、父の机の上は、完璧でした。ペンが三本、インク壺、吸い取り紙、定規。毎朝、角を揃えて。……世界が父を疑っても、父の書式だけは、父を疑わなかった。私が書式を信じるのは、多分、そのせいです。査問は三年続きました。三年です。父は毎朝、査問庁に出頭し、同じ質問に同じ答えを返し、夕方に帰ってきて、私の宿題を見てくれました。何も立証されず、しかし何も晴れず、父は職を追われ、街を追われ、私が十の年に、失意のまま亡くなりました。……最後まで、手続きの正しさだけを、繰り返しながら。墓碑にすら、疑いの目が向けられる葬儀でした。父は戦死者ではありません。戦ですらない何かに殺された、名のつかない死者です。あの人の名は、どこの名簿にも、載っていない」


「……それで、四十二条か」


「ええ。私が戦争を設計するなら、せめて、死者の名を一人残らず記録する戦争を。宙吊りのまま殺される者が二度と出ないように。――曖昧さが、父を殺した。定義だけが、人を守る。それが私の、三十年です」


「誓約庁には、いつから」


「十五で書記見習いに。二十二で法術士。二十六で筆頭に。……最短記録だそうです。急いだ自覚は、あります。曖昧に人が殺される前に、定義の側の人間が、上に立たなければならなかったので」


 父の死んだ歳の娘が、父を殺した曖昧の総本山に乗り込んで、頂点まで登った。敵討ちの道場破りを、書類でやったようなものだ。俺は素直に、この人の三十年に、頭が下がった。同時に思った。この人の宣誓書の異様な完成度は、才能の産物じゃない。喪失の産物だ。


 十の歳に父を失った娘が、父を殺した「曖昧」への復讐に、大陸一の法術士になった。復讐の得物が剣ではなく条文だったことだけが、彼女と、他の三十年の亡霊たちとの、違いだった。


 彼女は銀縁の眼鏡を押し上げ、いつもの声に戻って言った。


「……つまらない話をしました。手が止まっています。第三十一条」


「つまらなくは、ない」


「同情は、結構です。査問の三年で、同情の目は見飽きました。同情する側は三日で忘れる。される側だけが、覚えている。……第三十一条」


「同情じゃない。一つだけ、言わせてくれ」


 俺はペンを取らずに、彼女を見た。


「あんたの結論には、まだ反対だ。定義には賛成する。定義する対象が違うだけだ。……ただ、それとは別に」


 条文の言葉を、探して、やめた。こういう時に条文の言葉しか出てこないのが俺の欠陥だと、三年前に仲間に言われたことがある。だから、探すのをやめて、そのまま言った。


「マルクさんは、いい書記官だったんだと思う。娘の書式を見れば、分かる」


 書式は、嘘をつかない。人から人へ、手から手へ、教えられて残る。あんたの読点の打ち方も、附則の組み方も、机の上の道具の並べ方も――誰かから受け継いだものだ。受け継がせた人の仕事が悪かったはずが、ない。俺が言えるのは、証拠に基づくそれだけで、そしてそれは、同情とは別の棚の話だった。


 セレンは、目を見開いた。それから、ゆっくりと視線を対照表に落とし、小さな、掠れた声で言った。


「……第三十一条。手が、止まっています」


「はいはい」


 作業の残りは、静かに進んだ。一度だけ、彼女がぽつりと聞いた。「あなたの書式は、誰に習ったのですか」。習っていない、と俺は答えた。ギルドの窓口で、五年、直され続けただけだ。「……独学ですか。この附則の参照構造を、独学で」。彼女は何かを言いかけて、やめて、代わりに手元の付箋に何かを書き、こちらに寄越した。『世界は広い』。全くだ。俺も三月前、あんたの港湾規約の前で、同じことを思った。


 第三十一条から先、彼女のペンの速度は、少しだけ、上がっていた。軽くなった、というのが正しいのかもしれない。三十年、誰にも肯定されなかった父親を、他国の事務屋が、書式一つで肯定した。それだけのことだが、それだけのことが、この世で一番、稀なのだ。


 対照表は夜明け前に完成した。全六十三項目、異同と論点、双方の言い分を、過不足なく並べた一覧である。連名の署名欄に二つの名前を並べて書いた時、俺は妙な気分になったが、その正体を考えるのは、後回しにした。締切のある男に、夜明けの感傷は贅沢品だ。


 宿への帰り道、俺は考えていた。彼女の三十年を解く鍵と、両国の三十年を解く鍵は、同じ扉の向こうにある。マルク書記官の無実を、完全に証明できるのは、あの夜の海で何が起きたかを語れる者だけだ。そしてその扉には――俺が自分で設計した、開かずの錠が掛かっている。

次回「第27話 秘匿契約の解約条項」は、9月28日(月)18時30分更新です。

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