第25話 誓約法廷
前回:「第24話 和平宣誓書という発明」
◆記録係・リド。
審問開始の前夜、俺は仲間の前で、正直に言った。「相手はセレンだ。俺一人の条文じゃ、多分、押し切れない」。三人の答えは早かった。レーヴェ「証人が要るなら、あたしが聞いてきた人たちの声がある」。エルシー「数字が要るなら、店の帳簿と巡回の記録が」。ミラベル「魔導理論の裏付けが要るなら、任せて。加護制裁の術式検証、もう書いた」。……うちは、四人で一枚の書類なのだった。あらためて。
誓約法廷は、ポルトネラで一番古い建物だった。潮に磨かれた白い石柱、高い天井、そして正面の壇上に据えられた、巨大な青銅の天秤。両の皿は空で、それでいて、見る者に妙な緊張を強いる。空の天秤ほど、人の背筋を伸ばさせるものはない。
「あの天秤、飾りじゃないぞ」傍聴席で、ドナ議長が囁いた。「法廷の梁には、古い精霊が住んどる。審理の間だけ、あの天秤の皿に降りてきよる。……嘘には反応せん。だが『心にもないこと』を喋ると、天秤が、傾く」
「嘘には反応しないのに、ですか」
「嘘つきは、自分の嘘を信じ込めるからな。厄介なのは、本心を偽る弁論よ。信じてもいない正義を朗々と語る類の、な。あれには、てきめんに傾く。……この法廷で三十年、弁の立つ男が何人、天秤に殺されたか」
「議長は、傾けたことは」
「二度ある。二度とも、儂は自分の本心を知らんかった。天秤に教わったのよ。……便利じゃろ、この法廷は。自分の本音の在り処まで、審理してくれる」
受理原則の、法廷版というわけだ。この大陸の司法は、詭弁探知機を標準装備している。西大陸の法廷に輸出したら、静かになる議会がいくつあるだろう。
審問の枠組みはこうだ。開戦宣誓案と和平宣誓案、二つの草案を、三人の誓約判事が七日間かけて審理する。条項ごとに双方が立論し、反対尋問を行い、最終日に「いずれの誓約が受理に値するか」の勧告を、両国王へ出す。判事は三名。首席は齢八十の老判事で、開廷前、俺とセレンを等分に眺めて「――良い書式の喧嘩を、久々に見られそうだの」と、実に楽しそうに言った。大陸の歴史で、戦争と平和が同じ法廷で天秤にかけられるのは、初めてのことだという。
注目は、凄まじかった。傍聴券は夜明け前に尽き、街角の瓦版は連日一面、そして法廷前には堂々と賭け屋が出た(「西の事務屋に金貨五枚!」「筆頭様に十枚!」――俺の勝敗が賭けの対象になる日が来るとは。窓口時代の俺に教えたら、書類を三枚は落とすだろう。ちなみにミラベルが小遣いを俺に賭けようとしたので止めた。当事者の縁者は駄目だろう、常識的に。「じゃあセレンに賭ける」「もっと駄目だ」)。
初日。先手はセレンだった。彼女は和平案の急所を、正確に突いてきた。
「和平宣誓案・第二十一条、係争処理条項。国境や漁場の紛争を『裁定』で処理するとありますが――伺います。その裁定者は、誰が務めるのですか。ヴァルムが認め、リズレアも認める中立の裁定者。そんなものが存在し得たなら、三十年前に、とうに存在しています。存在しなかったから、三十年なのです。起草者は、いもしない聖人を条文の土台に据えている」
鋭い。傍聴席がどよめき、天秤の上の古精霊――半透明の、梟に似た何か――が、じ、とこちらを見た。
傍聴席の両国使節が、揃って頷くのが見えた。三十年の不信の急所を、開戦側の起草者が、和平案への攻撃という形で、満場に説明してくれたわけである。皮肉なことに、彼女の攻撃が正確であるほど、この審理は「本物」になる。手加減された審理で勝った和平など、精霊が受理するはずもないのだから。
「お答えします。裁定者は、聖人ではありません。『手続き』です」
俺は立ち上がった。
「第二十一条の別紙をご覧ください。裁定者は固定の人物ではなく、案件ごとに選任します。選任の手順――両国が三名ずつ候補を出し、相手国が理由を付して二名まで忌避でき、残った候補から精霊立会のくじで決する――この手続きそのものを、条文にしてあります。人の中立は信用できない。だから、中立を『人柄』にではなく『手順』に宿らせる。手順は、買収できませんので」
「では、更新条項。十年ごとに誓い直すとありますが、十年後の世代が更新を拒めば、和平はそこで終わる。時限式の平和に、何の意味が」
「意味なら、二つ。第一に、拒める和平だからこそ、受理される。押し付けの誓いを、精霊は取らない。第二に――十年ごとに、両国は『なぜ和平を続けるか』を、子供に説明しなければならなくなる。説明の努力を強制される平和は、説明の要らない平和より、頑丈です。俺の故郷の三百年戦争は、誰も『なぜ戦うか』を説明できないまま、三百年続きました。説明責任は、戦争より、平和の側に置くべきだ」
天秤は、どちらにも傾かなかった。双方、本気で本心を語っている証だった。傍聴席の空気が、変わるのが分かった。これは茶番ではない。大陸の明日を、条文で殴り合う、本物の戦いだと。
二日目は、加護制裁条項が戦場になった。ヴァルム側の武官が証言台に立ち、「武具から加護が抜ける制裁は、兵の命を人質に取る非人道的な仕組みではないか」と迫った。答えたのは俺だが、援護は意外な筋から来た。ジグである。彼は参考人として証言台に立ち、大剣を(許可を得て)掲げてみせた。「加護の抜けた剣ってのはな、折れやすい鈍らだ。そんなもんで戦えと言われたら、儂ら傭兵は、まず雇い主を疑う。『この戦、精霊に見放されとる』とな。……つまりこの条項はよ、兵を殺す仕組みじゃねえ。兵に『逃げていい』と教える仕組みだ。三十年、剣で食ってきた儂が保証する。悪くねえ条文だよ」。武官は反対尋問を放棄した。現場の言葉は、正論より強い。
三日目には、天秤が一度だけ、傾いた。リズレア側の廷臣が証言に立ち、「我が国は心より和平を望む」と朗々と述べた瞬間、青銅の皿が、ぎ、と鳴って沈んだのだ。法廷が凍った。廷臣は蒼白になり、判事は静かに言った。「証人。本法廷では、望んでいないことを望んでいると述べる自由は、ない。……『和平を望むが、北を信じられない』。そう言い直されよ」。廷臣が言い直すと、天秤は水平に戻った。本心の不信は、罪ではない。偽りの善意だけが、この法廷では罪なのだった。あの光景は、傍聴していた両国の使節の背筋を、まとめて伸ばしたと思う。
審理の合間、賭け屋のオッズは日替わりで動いた。四日目の朝には「引き分け・共同起草」なる珍配当が新設され、しかも妙に買われていた。街の連中の観察眼は、法廷の判事より、時々鋭い。
初日の審理が終わり、休廷の鐘が鳴った、その時だった。
リズレア側の傍聴席から、野次が飛んだ。
「――よりにもよって、マルクの娘が、戦の誓いを書くか!」
衛兵が野次の主を摘み出す間、法廷は妙な静けさに包まれた。リズレア側の使節の何人かが、目を伏せた。ヴァルム側は、事情が分からず顔を見合わせた。三十年物の因縁には、国ごとの索引がついている。南の索引にだけ載っている名前が、いま、投げ込まれたのだった。
壇上のセレンの手が、書類の上で、一瞬、止まった。ほんの一瞬。彼女はすぐに何事もなかったように書類を揃えたが、その一瞬を、俺は見てしまった。書類を扱う人間の手は、嘘をつけない。あれは、古傷を突かれた手の止まり方だった。
……マルク?
次回「第26話 セレンの三十年」は、9月27日(日)18時30分更新です。




