第22話 水先案内人の告白
前回:「第21話 乱闘と、パンの匂い」
その夜、宿の扉が叩かれた。
もう遅い時間だった。エルシーは翌日の救護の仕度をし、レーヴェは剣の手入れを終え、ミラベルは『黎明』の書を枕元に船を漕いでいた。扉を開けたのは、俺だ。
戸口に立っていたバウ爺は、昼間の商人の顔を、どこかに置き忘れてきていた。手には、あの炊き出しのパンの包み。夕方から今まで、食べも捨てもできずに、持ち歩いていたらしい。
「……夜分にすまんな、調停屋。あんたらの店は――あの、リズレアの回復屋は、『重くならない』そうだな」
「ええ。ただし秘匿契約の適用範囲は、あの店の敷居の内側だけです」
「調べたんか」
「あんたの店の噂くらい、北の商人は三日で仕入れます。……いや、失礼。あんたが仕入れたんでしたね、今のは」
「なら、広げてくれ。今夜、ここに。……儂は明日、北へ帰る。今夜を逃したら、儂はまた三十年、黙る側に戻っちまう気がするんでな。年寄りの三十年は、若いもんの三十年と違って、次がない」
エルシーが、静かに頷いた。聖職者は、告解を求める者を拒まない。そしてその祈りを、事務が支える。俺は三十分で「適用範囲拡大の覚書」を起草し、ベッシが覚書の中央に、ぺたん、と体を押し付けた。半透明の体の跡が、印章のように淡く光る。精霊界の、割り印である。宿の一室が、その夜だけの、重くならない告解室になった。
バウ爺は椅子に腰を下ろし、しばらく、宿の床板の木目を見ていた。急かす者は、いなかった。ミラベルまで、黙っていた。三十年物の口が開くまでの沈黙は、三十年に対する、最低限の礼儀だった。
「一つ、先に言うておく」バウ爺は、俺たち全員を見回した。「あんたら全員に聞いてもらう。ただし――この『秘匿』の下でだ。あんたらは、聞ける。だが、使えん。それでよければ、話す」
俺は、遅れて理解した。この爺さん、うちの契約を正確に理解している。真実を打ち明けて楽になり、なおかつその真実を、封をしたまま渡す気だ。告白と口封じを、一つの椅子で済ませる。老獪、ここに極まれり。
だが、エルシーは言った。
「構いません。懺悔の値打ちは、使い道では決まりませんので。――どうぞ」
バウ爺は、懐のパンの包みに一度だけ触れて、語り始めた。最初の一言が出るまでに、湯が一度、沸き切った。誰も注ぎ足さなかった。
「……儂の本当の名は、ヨエル。三十年前のあの夜、花嫁御寮の船の、舵の横に立っとった水先案内人だ」
凪いだ夜だったという。星が出て、風は追い風で、海峡はいつも通りに見えた。彼は二十年その水路を通ってきた男で、海図は頭に入っていた。――二十年間、正しかった海図が。
「あの晩の儂は、上機嫌だった。姫様を北へ届ける大役だ。水先案内人の生涯で、あれ以上の誉れはない。姫様はな、出航の前、儂ら船員のひとりひとりに、名を聞いて回られた。儂の名を聞いて、『ヨエル、良い名前。北まで、頼りにしています』と笑われた。……頼りに、しています、とな」
地震のことは、知っとった、と彼は続けた。だが海図の改訂の報せは、まだどこにも出とらんかった。誰も知らんかったんだ。あの浅瀬が、生まれとることをな。
「船底が噛んだ音を、儂は今でも夢に見る。ごり、という、あの音を。……舵は正しく切った。海図の通りに、完璧に。完璧に切った舵が、船を浅瀬のど真ん中に運んだんだ」
転覆。夜の海。彼は投げ出され、波間に姫の白い袖を見た。掴もうと泳いだ。波が二人を、別々の方向へ引き剥がした。それきりだった。
「気づいたら、南の浜に打ち上げられとった。生き残ったのは儂ひとり――と、そう思っとった。そして三日目、村の広場で聞いたんだ。『南の仕業だ』『北の仕業だ』の大合唱をな。儂は、言うべきだった。違う、あれは事故だ、海の底が動いとったんだ、と。だが、な」
彼の声が、初めて、ただの老人の声になった。
「『事故だ』と言えば、どうなる。操船しとったのは儂だ。海の変化を読めんかったのは、儂の腕だ。事故だと認めた瞬間、あの沈没は――儂が、殺したことになる。姫も、船員十四人も、みんな。『頼りにしています』と言われた儂が、な。……戦のせいなら、儂は『悲劇の生き残り』でいられた。だから儂は海を捨て、名を捨て、北へ渡って、そして」
彼は、自分の指の金の指輪を、じっと見た。
「戦の匂いのする商売を始めた。憎み合いが続くほど、儂の店は儲かった。三十年よ。……戦がな、調停屋。戦が儂を食わせてくれたんだ。儂の嘘を、三十年、養ってくれたんだよ」
「……匿名の金の話も、聞いています。海で死んだ水夫の遺族に、三十年」
「知っとったか。……あんなもんはな、罪滅ぼしじゃねえよ。利息だ。儂の嘘の元金は、びた一文減っとらん。減らせるのは、儂が口を開くことだけで――その口が、三十年、開かなんだ。今夜までな」
今日の広場の話を、彼は問わず語りに続けた。担架の傭兵ども。並んで食う両国の民。子供の「仲直りだよ」。……三十年、戦が続く理由を数えて生きてきた男は、今日初めて、戦が要らない世界の見本市を、真ん中で見せられたのだ。
「ああいうもんを見ちまうとな、調停屋。儂の三十年の商売が――儂の嘘が、何を食い物にしてきたか、勘定が立っちまう。儂は帳簿の男だ。勘定が立ったら、もう、知らんふりはできん」
部屋は、長いこと静かだった。レーヴェは声を出さずに泣いていた。今夜は、それが正しい泣き方だった。俺は、一つだけ聞いた。
「ギルドの沿岸倉庫の木箱に、三十五年前の海図が一枚、残っていました。あれは」
「儂のよ。当夜、儂が使っとった一枚の写しだ。何度も焼こうとした。焼けなんだ。……あれを焼いたら、あの夜ごと、なかったことになる気がしてな。倉庫の木箱ってのはな、調停屋。焼けん男の、墓の代わりよ」
「――あんたも、だったのか」
思わず、声が漏れた。名乗り出る勇気の代わりに、灯りを守り続けた人がいる。名乗り出る勇気の代わりに、一枚の紙を三十年、捨てられずにいた男がいる。海峡を挟んで、二人の生き残りが、それぞれの見張り番を、三十年続けていた。互いの存在も知らずに。
「ん? なんの話だ」
「いえ。……こちらの話です」
告解が終わり、エルシーの祈りが灯った。三十年ぶんの告白は、一時間に満たなかった。人の一番重い荷物は、案外、言葉にすれば短いのだ。短くなるまでに、三十年かかるだけで。バウ爺の、長年固まっていた右手の古い節が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。彼は立ち上がり、扉口で、振り返らずに言った。
「楽になった。礼を言う。……三十年ぶりに、今夜は夢を見ずに眠れそうだわい。そして、すまんな、調停屋。これであんたらは、この話を――使えん」
「ええ。使いません。……ただ、一つだけ。契約の第三条を、覚えておいてください。秘匿の解除は、懺悔者本人の申し出で、いつでもできる。扉の鍵は、あんたの側のポケットに入ってます。三十年、いつでも」
バウ爺は、半分だけ振り返り、何も言わずに、夜の中へ出て行った。
――翌朝。ポルトネラの街中に、誓約庁の公示が貼り出された。
『告示。開戦宣誓書、本日完成せり。三日後、誓約法廷にて公開説明会を執り行う。起草・誓約庁筆頭法術士セレン』
次回「第23話 完成した開戦宣誓書」は、9月24日(木)18時30分更新です。




