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第21話 乱闘と、パンの匂い

前回:「第20話 主戦派の正体」

五日後、駆け戻ったポルトネラは、ひりついていた。


 港が見えた時から、様子がおかしかった。入港する船が少ない。桟橋の荷揚げが止まっている。街に入ると、あちこちの店の窓に板が打ち付けられ、壁には引き剥がされたビラの跡。すれ違う人の目が、俺たちの服装や訛りを、素早く値踏みする。北か、南か。三日前まで「カコ・カリ様」と拝んでいた街が、他所者全員を、まず疑う街に変わっていた。憎悪の火の回りは、火事より速い。


 発端は、些細な噂だったという。誰が流したかも分からない、「開戦宣誓書、完成間近」の五文字。噂に署名はなく、宛先もなく、しかし伝わる速さだけは正規の公文書の百倍だった。噂で穀物の買い占めが起き、値を吊り上げたのはヴァルム系の商人だ、いやリズレア系が先に隠したと罵り合いになり、桟橋で殴り合いが始まり、双方の助太刀が膨れ上がり――中立都市の広場は、三十年分の火種の見本市と化していた。屋台は店を畳み、水路の舟は岸に避け、あの「お先にどうぞ」の鈴の音が、街から消えていた。三十年、混ざって暮らしてきた街が、たった一つの噂で、二色に分かれていく。憎悪というのは、平時は眠っているだけで、死んではいないのだ。


 到着してまず、俺たちは手分けした。エルシーは広場の隅に臨時救護所を開き(「治療は無料。ただし喧嘩の武勇伝は聞きません」の貼り紙つき。語らせると再燃するからである)、俺は評議会で被害の記録と、騒ぎの火元の特定にかかった。火元は、すぐ割れた。穀物の買い占め。開戦の噂で相場が跳ね、恐慌買いが恐慌買いを呼んだ、教科書通りの相場パニックだ。


 そこはメルヴィナ商会支店が、教科書通りに潰した。支店長代理は倉庫の穀物在庫を、相場の三割引で、一斉に市場へ放出したのだ。「買い占めには在庫を、恐怖には安値をぶつけろ。会頭の教えです」。吊り上がった相場は半日で崩れ、買い占め屋は在庫を抱えて青くなり、パンの値は元に戻った。金鱗の商売敵に回らなくて、本当によかったと思う。


「衛兵だけでは抑えきれん! 武器を持ち出す阿呆が出るのも時間の問題だ!」


 ドナ議長の悲鳴に、ミラベルが挙手した。


「鎮圧なら任せて! 詠唱の圧で全員を平伏させ――」


「「「圧はやめろ(やめてください)」」」


「じゃあ二パーセントで広場の敷石だけ崩して、物理的に立てなく――」


「「「もっと駄目だ(です)」」」


 却下されるたび代案の物騒さが増すのは、なぜなのか。


 伝統芸で真紅の魔女を羽交い締めにしながら、俺は広場を見渡した。鎮圧は、駄目だ。力で抑えた怒りは、宣誓の儀の日に、倍になって戻ってくる。要るのは、怒りの置き場所を変える、何かだ。


 その何かは、匂いから来た。


 メルヴィナ商会支店の倉庫が開き、荷車が広場に乗り入れてきたのだ。荷台に山と積まれた木箱――見覚えのある焼き印。『風のパン屋』。西大陸からの定期輸出便の、非常食在庫だった。荷車の先頭で樽を担いでいるのは、土色の毛玉。ポポだ。支店の荷運び係、本日、就職以来の大立ち回りである。


「支店長代理の判断です!」店の若い衆が叫んだ。「本店のヴァルガさんから、こういう時のための手紙を預かってます! あと会頭からも訓令が! 『非常時の炊き出しは全額商会持ち。うちの看板で、ケチな真似はするな』だそうです!」


 金鱗の女王は、海の向こうから、商売と男気の両立をやってのける。炊き出しの列に商会の紋の旗が立ち、あの旗の下でだけは、誰も殴り合わなかった。


 手紙は、木箱の一番上に釘で留めてあった。


『喧嘩の後の腹は減る。喧嘩の最中の腹は、もっと減る。――このパンは、少し甘めに焼いてある。喧嘩の後の口には、それがいい。 風のパン屋』


 俺はこの手紙を、後で書き写させてもらった。三百年戦争の最前線で兵を率いた男の、これが戦後の兵法である。「腹は正直だ」を、あの男は空の上から、三百年、見てきたのだ。


 海を越えて届いていた手紙の日付は、三月も前だった。喧嘩の起きる前から、喧嘩の後のパンを焼いて寄越していたのだ。元・四天王の戦場読みは、パン屋になっても衰えていない。炊き出しの煙が上がり、焼き直されたパンの匂いが広場に流れると、殴り合いの熱は、目に見えて位置を変えた。拳を振り上げていた男の鼻が、ひくりと動き、振り上げた拳のやり場に困り、隣の敵の肩を「……並ぶか」と叩く。腹は正直だ。憎悪より、歴史が古い。


 そしてもう一つ、広場の空気を変えたものがあった。


「怪我人はこっちだ! 北も南も関係ねえ、血が出てる順に運べ!」


 鎧の男たちが、担架で負傷者を運んでいた。ロダン戦団だった。聞けば、頭のジグは「まだ保留」のまま、しかし部下の若い連中が待ちきれず、演習と称して救難稼業の「試運転」を始めていたのだという。彼らは誰にも雇われず、どちらの側の負傷者かも問わず、ただ黙々と、人を運んだ。運び方が、また丁寧なのだ。担架の傾きに気を配り、日陰を選んで寝かせ、水を回す。誰に教わった手際かと聞けば、若いのが照れ臭そうに答えた。「ドレン村で、あんたらの剣士がやってたのを、見てたんで」。


 最初は訝しんでいた住民たちが、やがて、拍手を始めた。さっきまで殴り合っていた男が、自分を担架に乗せた傭兵の顔を、まじまじと見上げていた。


「……あんた、ヴァルムの傭兵だろう。俺は、リズレアの生まれだぞ」


「血が出てる順、って頭数えの兄貴が言うんでな。あんた、三番目だった。それだけだよ」


 それだけ、で世界は十分に変わるのだ。広場の熱は、夕方には炊き出しの列の長さに変わっていた。


 炊き出しの縁台では、さっきまで互いの陣営で石を投げ合っていたらしい婆さんが二人、隣り合って座っていた。片方が「北のパンは固い」と文句を言い、片方が「南の塩気は薄い」と言い返し、それでも二人とも、二個目に手を伸ばしていた。喧嘩の続きのような口調で、パンの品評会をやっている。ポポが恐る恐る茶を注ぎに行くと、二人同時に「あんた、いい毛並みだね」と褒めた。国境より、毛玉の方が強い。世界はそういうふうに、できている。


 ――その炊き出しの列の中に、俺は、見覚えのある禿頭を見つけた。


 商談でポルトネラに来ていたらしい、バウ爺だった。彼は列に並び、順番が来て、給仕を手伝う子供から、パンを一つ、受け取った。


「おじいちゃんも、喧嘩したの? これ食べたら、仲直りだよ」


 子供は屈託なく言って、次の客に向き直った。


 バウ爺は、受け取ったパンを、両手で持っていた。片手で足りる大きさのパンを、両手で。子供はもう次の客に「はい、どうぞ」を言っていて、爺さんの三十年に気づく者は、広場の誰もいなかった。俺以外は。


 バウ爺は、パンを持ったまま、動かなかった。負傷者を運ぶ元傭兵たちと、両国の民が並んで座る炊き出しの縁台と、手の中の、少し甘い焼きたてとを、順に見て――三十年、戦で食ってきた男は、夕暮れの広場の真ん中で、彫像のように立ち尽くしていた。


 俺は、声をかけなかった。かける必要が、なかった。三十年かけて固まったものが、砕ける時は、外からの力ではなく、内側の、こういう夕暮れによってなのだ。窓口五年と調停者三年の経験で、それだけは知っていた。

次回「第22話 水先案内人の告白」は、9月23日(水)18時30分更新です。

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