第20話 主戦派の正体
前回:「第19話 軍需ギルドの帳簿」
広場の人だかりは、二千は下らなかった。演壇の周りには鎚を置いてきた職人、店を閉めてきた商人、非番の兵。子連れの女房たちは輪の外に立ち、それでも帰らずに、聞いていた。開戦の演説を、国じゅうが聞きに来る。それ自体が、この国の三十年の煮詰まり方だった。
「――三十年だ!」
ギレンの声は、よく通った。
「三十年、我らは犯人のいない葬式を続けてきた! 姫君を悼み切ることも許されず、忘れることも許されず、南を憎むことすら、中途半端に! 国境の小競り合いで倒れた者、この三十年で四百十二名! 彼らは戦死者か? 違う! 戦ですらない何かで死んだ、名のつかぬ死者だ! 私は問いたい。名のつかない死と、名のある戦と、どちらが民に誠実か!」
途中、群衆の中から、しわがれた声が飛んだ。「若造が! 戦を知らんくせに、戦を語るな!」。九十年戦争の生き残りだという白髭の老人だった。広場が凍った。ギレンは、声の主を探し、まっすぐにその老人を見て、演壇の上で、頭を下げた。
「仰る通り、私は戦を知らない。だからこそ問いたい、ご老体。あなたは戦を知っている。そして私は、戦のない三十年しか知らない。……あなたの知る戦と、私の知る三十年と、どちらがましだったか。それを決められるのは、両方を知るあなただけだ。教えてほしい。本心から」
老人は、長いこと黙り、それから、絞り出すように言った。「……どっちも、地獄よ。ただな、儂の地獄には、終わりがあった」。広場は、水を打ったようになった。その静けさこそが、この演説の本当の得点だった。
広場が、うねるように沸いた。俺は演説の間、拍手をする人々の顔を見ていた。熱狂ではなかった。もっと疲れた、「もう、どちらでもいいから終わらせてくれ」という顔が、半分以上を占めていた。拳を突き上げる若者の隣で、母親らしき女が、拍手をしながら泣いていた。あの涙は、戦への賛成でも反対でもない。ただの、三十年分の疲労だった。
「四百十二名」という数字を、俺は後で確かめた。正確だった。しかも軍の公式記録の数字ではない。公式の「戦死者」に、国境警備中の事故死、緊張下の自死、封鎖で薬が届かず死んだ病人まで含めた、独自の集計だった。誰の仕事かと調べたら、ギレン本人だった。この王太子は、演説のために数字を盛る代わりに、演説のために、三十年分の名簿を自分で数え直したのだ。
演説は上手かった。数字が正確で、論理が通っていて、扇動の常套句が一つもない。俺は演説を聞きながら、嫌な既視感を覚えていた。この演説、書式が良すぎる。誰かが徹夜で推敲した、誠実な書類の匂いがする。扇動家の演説は破れる。誠実な演説は、破りにくい。
演説の後、俺たちは控えの天幕でギレンと向き合った。彼は汗を拭いながら、こちらの用件を待たずに言った。
「聞いていたのだろう、調停者殿。反論があるなら聞こう。私は逃げない」
「反論の前に、一つだけ。殿下は、なぜそこまで急ぐのですか」
「急ぐ? 三十年を、急ぐと言うか」
「大潮の日を、待っていられる程度には、お急ぎでない。……でも、俺たち調停者の到着を待たずに演説を打つ程度には、お急ぎだ。その差が、聞きたいんです」
ギレンは、しばらく黙った。それから、演説の声とはまるで違う、低い声で言った。
「……私は、この冷戦の中で生まれた。物心ついた時から、王城の晩餐の席には、空の椅子が一つあった。伯父上の隣だ。誰も座らず、誰も片付けぬ椅子が。伯父上は三十年、死人と婚約しておられる。国ごと、喪服を着たままだ。祭りは遠慮がちで、婚礼は控えめで、子供の歌にまで、どこか喪の色が染みておる。……あなたの目に、この国はどう映った」
「鎚の音のよく響く、静かな国に」
「静かなのではない。息を潜めているのだ、三十年。祭りの太鼓も、婚礼の楽も、この国では皆、どこか一拍、遠慮して打たれる。城の楽師に問うたことがある。なぜ全曲、短調に編むのかと。楽師は答えられなかった。誰に命じられたのでもない。国ごと、耳が喪に慣れてしまったのだ。……幼い頃、一度だけ、あの空の椅子に座ろうとしたことがある。五つの時だ。乳母が血相を変えて私を抱え上げ、父は私を打った。生涯で、あの一度きりだ。誰の椅子かも教えられずに、打たれた。……この国の子供は皆、ああやって育つ。触れてはならぬ何かを、名も知らされずに、避けて歩く稽古をしながら。私はそれを終わらせたい。弔いには、結末が要る。結末が戦でしか買えぬのなら、私は戦を買う。それだけのことだ」
野心の匂いは、どこにもなかった。あるのは、セレンと同じ形の、「終わらないこと」への憎悪。この大陸の主戦派は、好戦家ではなかった。終戦家が、こじれた姿をしているだけだった。
「一つ、確認させてください。殿下。仮に――仮の話です。戦以外の方法で、あの空の椅子に『結末』が来るなら。伯父上の三十年に、弔いの形がつくなら。……それでも、戦は要りますか」
ギレンは、即答しなかった。生真面目な男は、仮の話にも、生真面目に詰まる。長い沈黙の後、彼は言った。
「……要らぬ。当然だ。私は戦が欲しいのではない。だが、そんな方法が、あるのか。三十年、誰も見つけられなかったものが」
「見つけられなかったんじゃない。探す場所が違ったんです。皆、憎む相手の側ばかり探してた。……探すべきは、多分、海の側だ」
「海の側……?」
それ以上は、言えなかった。言える段階ではなかった。だがギレンは、その半端な答えを、鼻で笑わなかった。手帳を出して、書き留めた。『海の側』と。検品の男は、検品するために、まず品物を棚に置くのだ。
「……殿下。終わらせたいのは、俺たちも同じです。一つだけお願いがある。手段の在庫を、あと三十日だけ広げておいてもらえませんか。戦以外の『結末』を、俺たちが棚に並べてみせる。並べられなかったら、その時は、あなたの演説に二度と反論しません」
「棚に並べる、と来たか。商人のような物言いだ」
「窓口出身なので。……それに殿下、あなたは開戦の『結論』を売っているんじゃない。『結末』を探している。探し物の客に、別の棚を見せるのは、窓口の本分です」
ギレンは、俺を長いこと見た。検品の目で。それから、ふ、と息を吐いた。
天幕を辞す前に、レーヴェがギレンの右手を見て、ぽつりと言った。
「殿下、剣、やるんだね。その手、稽古の手だ。それも、かなり」
「……日課だ。夜明け前に、千回」
「誰と戦う稽古?」
ギレンは虚を突かれた顔をし、それから、答えに詰まった。三十年の敵国の兵か。顔も知らない誰かか。答えの出ない稽古を、この生真面目な男は、毎朝千回、積んできたのだ。レーヴェは何も言わず、ただ「いい振りしてると思うよ、その手は」とだけ言った。慰めでも世辞でもない、剣士の検品だった。ギレンの目が、初めて、政治の色を失った。
「三十日。大潮までだな。よかろう。……並べてみせろ、カコ・カリ。その二つ名が本物なら、歴史の背負い方というものを、私に見せてくれ」
天幕を出たところで、早馬が土煙を上げて駆け込んできた。ポルトネラ評議会の急使だった。
「調停者様! 至急お戻りを――ポルトネラで、両国の住民が、衝突しております!」
次回「第21話 乱闘と、パンの匂い」は、9月22日(火)18時30分更新です。




