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第19話 軍需ギルドの帳簿

前回:「第18話 海流は嘘をつかない」

◆記録係・リド。ここからは再び、北の話だ。南から北へ、馬車で五日。同じ道を三往復目ともなると、街道の宿の親父に「おかえり」と言われるようになる。調停者というのは、要するに、二つの国の間を行ったり来たりする、伝書鳩に似た稼業である。違うのは、運ぶものが手紙ではなく、勘定と、証言と、まだ形のない和平の下書きだということだ。


 鉄の国ヴァルムへ取って返した俺たちには、軍需ギルドの本丸に入る、うってつけの口実があった。ロダン戦団の転換計画である。傭兵団の兵站契約はギルドが握っている。団の看板を掛け替えるなら、契約の巻き直しが要る。つまり――帳簿と条文の話をしに、堂々と正面から入れる。裏口を探す必要はない。書類のあるところ、正面が俺の入り口だ。


 軍需ギルド本館は、城下で一番立派な石造りだった。廊下には歴代の納入品の見本――槍、鎧、攻城兵器の模型――が誇らしげに並び、行き交う職員の脚は速い。繁盛している役所の速さだ。この建物の繁盛の源が三十年の冷戦だと思うと、見本の槍の輝きが、少し違って見えた。


 最上階、海の見えない側に窓を持つ執務室で、その男は待っていた。


「ほほう、あんたが噂のカコ・カリ様か。ギルド長のヨエルだ。皆はバウ爺と呼ぶがね」


 六十八歳。日に焼けた禿頭、人好きのする笑い皺、指に嵌めた太い金の指輪。軍需で財を成した男の、絵に描いたような姿だった。彼は俺の持参した転換契約の草案を、老眼鏡でざっと眺め、感嘆の唸りを上げた。


「見事な書式だ。第五項の違約条件の切り分け……ふむ、ふむ。若いの、うちで働かんか。給金は倍出すぞ」


「間に合ってます」


「三倍」


「間に合ってます」


「ふぉっふぉ、即答よな。金で動かん事務屋ってのは、一番高くつく相手だわい」


 冗談の形をした値踏みだった。俺も笑顔の形をした値踏みで返した。互いに、初手の検品を終えたわけである。


 転換契約そのものの交渉は、存外、まともに進んだ。ギルドにとっても、傭兵団の救難団化は悪い話ではないのだ。戦がなくても続く年間契約は、ギルドの帳簿にも安定をもたらす。担当の中堅職員は「兵站の中身が槍から担架に変わるだけで、うちの商売は変わりませんな」と言い、救難装備の調達品目表を見て、目の色を変えた。「担架、防水外套、灯油、薬品箱……これ、全部、定期需要ですぞ。戦と違って、毎年来る」。戦争経済の中の男たちも、算盤を弾けば、ちゃんと平和の側の数字が読めるのである。読む機会が、三十年なかっただけで。


「間に合ってます。ところでギルド長。契約の巻き直しには過去の取引履歴の照合が要ります。三十年ほど遡って、帳簿を拝見したい」


「三十年」


 笑い皺は、微動だにしなかった。年季の入った商人の顔は、驚きを顔に出さない。だが、出さないこと自体が、答えの一部だ。素人なら「なぜ三十年も」と聞き返す場面である。


「構わんよ。ただし保管庫のネズミと黴に文句を言わんことだ。……三十年前というと、儂がこのギルドを立ち上げた頃かのう。懐かしいわい」


 のらりくらり、である。帳簿は本当に見せてくれた。保管庫は半地下で、黴とネズミの予告は誇張ではなく、初日に棚が一つ崩れかけて、レーヴェが片手で受け止めた(保管庫番が拝んでいた。この旅、うちの前衛は拝まれてばかりである)。俺は綴りを年代順に並べ直すところから始めた。散らかった帳簿を整えるのは、他人の三十年を撫でるのに似ている。二日かけて検めたが、驚いたことに、帳簿そのものは潔癖だった。水増しも、二重帳簿の癖もない。軍需で儲けた男の帳簿が、ここまで綺麗なのは珍しい。まるで、いつか誰かに全部見られる日のために、備えてきたような綺麗さだった。だが肝心の設立前――彼がヴァルムに現れる以前の来歴に触れる書類は、一枚もなかった。過去のない男の帳簿は、設立初年度から、忽然と始まっていた。初年度の元手の出所さえ、「持参金」の一行で済まされている。三十年前、この国に、金と商才だけを持って現れた男。誰も来歴を問わなかったのは、冷戦の初期、軍需の才を持つ男を、誰もが喉から手が出るほど欲しがったからだろう。戦争は、人の過去を問わない。それが戦争の、数少ない寛容さだ。


 レーヴェも、搦め手を試した。


「バウ爺さん、あんた、昔は海の男だったんでしょ。手を見れば分かる。……その頃の話、聞かせてくれない?」


「おお、よう見とる。海の男の身の上話が聞きたいか? いいとも――嵐で三度死にかけた話、人魚を見た与太話、酒場の女将に惚れた話。どれがいい? 海の男の身の上話なんぞ、酒場に行きゃあ一ダース銅貨一枚よ」


 レーヴェは「じゃあ、人魚の話」と選んだ。バウ爺は調子よく語った。若い時分、夜の海に投げ出された仲間を探して船を出した晩、月のない波間に、白いものを見た。人魚の腕だと思った。夢中で手を伸ばしたが、波が二人の間を裂いて、白いものは沈んだ。以来、海の男は白い波頭に手を合わせる――。


 語り口は完璧な与太話だった。だが、語り終えた後、彼は自分の右手を、一瞬だけ、見た。何かを掴み損ねた手を確かめる、あの見方で。レーヴェは深追いしなかった。ただ、帰り道に一言、「あの人魚の話だけ、作り話の匂いがしなかった」と言った。


 残りの二本も、彼は求めに応じて語った。嵐の話も、女将の話も、聞かせる出来だった。語り終えるたび、爺さんは「銅貨は要らんよ、勉強代だ」と笑った。何の勉強かは、言わなかった。


 結局、三本、面白おかしく語られたわけだ。語り口は達者で、嵐の話では俺まで手に汗を握った。だが、全部、輪郭のぼやけた、誰の話でもあり得る話だった。船の名が出ない。港の名が出ない。年代が出ない。傾聴の達人が水を向けても、出てくるのは商品化された身の上話だけ。三十年、こうして生きてきた男の、鉄壁の話術だった。


 辞去の間際、俺は執務室を見回して、確信だけを持ち帰った。海の男だったと自ら認める男の部屋に、海図が一枚もない。窓は山側にしか開かない。海運で儲かる軍需物資も多かろうに、取引記録の海上輸送の比率だけが、不自然に低い。そして書き物をする彼の右手には、ペンだこの下に、もっと古くて硬い、消えないたこがあった。長年、太い舵輪を握り続けた者の手にだけ残る、節が。


「……固いね、あの爺さん」帰り道、レーヴェが唸った。「固いっていうか、慣れてる。隠すことに、体が慣れてる。あとさ……あの人、あたしが『海』って言うたび、瞬きが増えた。嘘の名人でも、瞼までは躾けられないんだね」


「三十年物だからな。焦らない。無理にこじ開ければ、心ごと閉じる。外堀から行く」


「外堀って、具体的には」


「奴の周りの世界を、少しずつ、嘘の要らない世界に変えていく。戦団は救難団になる。鍛冶の鎚は救難具を打ち始める。市場は和平の勘定を覚える。……嘘ってのはな、それを必要とする世界がある限り、破れないんだ。逆に言えば、世界の方が先に変われば、嘘は勝手に、賞味期限を迎える。俺たちは奴を追い詰めない。奴の嘘だけを、時代遅れにする」


「……あんたの搦め手、ほんと、気が長いね」


「三十年物の相手だぞ。三十日は、むしろ短納期だ」


 その外堀の街、城下の大広場に、その日、人だかりができていた。急ごしらえの演壇の上に立っているのは、見覚えのある生真面目な顔。


 王太子ギレンが、開戦支持の大演説を、始めるところだった。

次回「第20話 主戦派の正体」は、9月21日(月)18時30分更新です。

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