第18話 海流は嘘をつかない
前回:「第17話 三十年の灯」
◆ここからは、いつもの記録係に戻す。リドだ。
攻め口を帳簿に決めたのには、理由がある。人の記憶は三十年で薄れ、証言は立場で歪む。だが帳簿は、書いた日のまま古びるだけだ。しかも漁の帳簿は、嘘をつく動機がない。誰も、三十年後の国際調停のために水揚げをごまかしたりしない。つまりこの国で一番信用できる証人は、人間ではなく、漁業組合の書庫だった。
俺が漁業組合の書庫に籠もって五日目のことだった。潮の国の漁師は代々、几帳面に帳簿をつける。何日に、どの漁場で、何が、どれだけ揚がったか。時化の日、凪の日、潮の色、月齢まで書く帳面もある。海に生かされている民は、海の機嫌を記録することで、海と付き合ってきたのだ。組合長は最初、他所者に帳簿を見せることを渋ったが、「貴組合の四十年分の記録は、学術的に大陸一の価値がある」と正面から褒めたら、鼻の穴を膨らませて書庫の鍵を開けてくれた(事実なので、おだてではない。この帳簿群は本当に大陸の宝だ)。力仕事はレーヴェが担った。四十年分の帳簿は、箱にして六十箱ある。彼女は一箱ずつ運びながら、ついでに組合の若い衆の身の上話を三日で聞き終え、書庫は途中から、妙に和やかな作業場になった。
四十年分の水揚げ帳簿を年表に起こしていくと、それは、出た。
「――三十年前を境に、漁場の記録が、丸ごと動いてる」
宿の机に、俺は書き起こした図を広げた。エルシー、レーヴェ、ミラベル、それにベッシが覗き込む。
「いいか。三十一年前まで、鰆の好漁場は海峡の北側だ。四十年間、ずっとだ。それが三十年前の春から、記録がぱたりと途絶えて、同じ年の秋、海峡の南側に『新漁場発見』の記載が出る。鰆だけじゃない。海藻の採れる岩場、烏賊の通り道、全部が同じ年に、いっせいに引っ越してる。魚が気まぐれを起こしたんじゃない。――魚を運ぶ『海流』そのものが、動いたんだ」
「三十年前……」レーヴェが呟いた。「大地震の年だ。漁師の爺さんたちが言ってた。あの地震から、海獣どもの通り道も変わったって」
「そうだ。海底がずれて、流れが変わった。裏も取った。組合の隠居連中に、レーヴェが聞き込みをかけてくれた。『地震の後、親父の代の漁場が全滅した』『新しい潮目を探すのに三年かかった』――証言は十七人分、全部、帳簿の記録と一致する。あの年、この海峡の海は、間違いなく、別の海になったんだ。そして、ここからが本題だ」
俺は、あの飴色の海図を、現行の海図の隣に並べた。
「三十五年前の海図。当時の海峡の航路は、この線だ。この航路は、当時の海流と浅瀬の配置なら、完璧に安全だった。だが地震で浅瀬が動いた。この、ここだ。旧航路のど真ん中に、新しい浅瀬が生まれてる。……そして当時、海図の改訂は数十年に一度だ。地震の直後、改訂前の古い海図で、夜、この旧航路を通った船があったとしたら」
部屋が、静まり返った。
「船底は、誰の悪意もなく、生まれたばかりの浅瀬を噛む。……花嫁の船が沈んだのは、地震の半年後だ。仕組まれた沈没じゃない。変わった海と、古い海図が起こした、事故だった可能性が高い」
「待って」ミラベルが手を挙げた。「半年もあったんだろ。誰も浅瀬に気づかなかったの?」
「いい質問だ。気づいた者は、いたはずだ。現に漁師は漁場の変化に気づいてる。だが、漁師の知識と、外洋航路の海図は、別の帳簿なんだ。漁師は自分の瀬を知ってるが、王族の船の航路計画には関与しない。航路を引くのは水先案内人と海図で――海図は、古いままだった。……知識はあった。ただ、知識と知識の間を繋ぐ窓口が、なかったんだ」
窓口があれば防げた事故、という言葉の重さを、俺はこの夜ほど噛み締めたことはない。三十年の憎悪の始まりは、悪意ですらなく、帳簿と帳簿の間の、隙間だった。
「じゃあ、じゃあさ!」ミラベルが身を乗り出した。「それを両国に見せれば、三十年の誤解が解けて――」
「解けない。まだだ」
俺は首を振った。
「これは全部、状況証拠だ。漁場の帳簿は『海が変わった』ことしか証明しない。あの夜、あの船が『実際にどの航路を取ったか』は、帳簿には書いてない。三十年、互いの陰謀だと信じてきた両国を翻意させるには、決定打が要る。三十年も憎み続けた人間ってのはな、信じたい話より、信じてきた話を選ぶんだ。よほどの決定打がなければ。――あの夜、舵の横に立っていた人間の、証言が」
「操船した人……生き残りが、いるのですか」
エルシーの声が、なぜか少し掠れていた。
「事故の公式記録も、組合の写しで読んだ。生存者の記録は、なし。ただし、遺体の上がらなかった者も、複数いる。生存者ゼロというのは、記録の上の話に過ぎないんだ。そして、組合の古い名簿を洗った。当夜の水先案内人は、ヨエルという男だ。公式記録では『事故後、行方不明』。だが組合の古老が覚えてた。『ヨエルなら、あの事故のあとに海を捨てた。今じゃ北で大層な羽振りよ』――ってな。北で、海を捨てた男が就く商売。羽振りのいい商売。名前を変えて、来歴を洗って、突き合わせた」
俺は、一枚の紙を、卓の中央に置いた。ヴァルムで手に入れた、軍需ギルドの役員名簿の写し。その筆頭の名を、指で叩く。
「――鉄の国・軍需ギルド長。通称、バウ爺。三十年前の事故の、唯一の生き証人は、この三十年の冷戦で、一番儲けてきた男だ」
卓の上の名簿の写しを、全員が、順に見た。ヴァルム軍需ギルド長・バウ。従軍書記ギルドの登記より、就任は二十九年前。前歴の欄は、空白。空白の前歴で軍需の頂点に立てる国は、ない。誰かが、埋めたのだ。来歴を、金か、力か、沈黙で。
「……胡散臭さの見本市みたいな配役だね」とレーヴェ。
「ただ、妙な評判も拾ってる。ヴァルムで聞いた話だ。バウ爺は軍需で儲ける一方で、身寄りのない水夫の遺族に、匿名で金を配ってるらしい。三十年、欠かさずだ。匿名のつもりが、長すぎて公然の秘密になってる。……戦で儲ける男が、海で死んだ者の遺族にだけ、金を配る。この取り合わせを、どう読む」
「……罪滅ぼし、ですか」エルシーが、静かに言った。
「かもな。だとしたら、何の罪の、だ。それを聞きに行く」
「ああ。事故を隠して冷戦で儲けた黒幕、という筋書きが、一番簡単に書ける。だが――簡単に書ける筋書きほど、疑ってかかるのが監査の作法だ。奴が何を知っていて、なぜ黙って、なぜ軍需で儲ける側に回ったのか。全部、本人の口から聞くまでは、決めつけない。……次の目的地は、決まりだな」
*
その夜、エルシーは三通目の手紙を書いた。今回の本文は、いつになく短かった。そのかわり、問いかけの行が、増えていた。
『授業は、どこまで進みましたか。歴史の、どのあたりを教えていますか。
生徒さんの中に、いたずらっ子はいますか。あなたは叱るのが下手そうです。
お身体は。眠れていますか。三百年分の夜更かしの癖は、直りましたか。
……こちらは、海の色ばかり見ています。報告することが、それくらいしか』
そこまで書いて、彼女は手を止め、自分の書いた行を数え、報告が三行で質問が七行であることに気づき、便箋を裏返して、しばらく窓の外の灯台の光を見て、それから裏返すのをやめて、そのまま封をした。
――大潮の日まで、あと五十八日。
(第3章・了 →第4章「戦争で食う人々」へ続く)
次回「第19話 軍需ギルドの帳簿」は、9月20日(日)18時30分更新です。




