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第23話 完成した開戦宣誓書

前回:「第22話 水先案内人の告白」

誓約法廷の大広間は、立錐の余地もなかった。両国の使節団、評議会、市民。傍聴席の最前列には、供を連れたギレン王太子の姿まであった(「手段の在庫とやらを検分に来た」とのことである。律儀な男だ)。壇上のセレンは群青の法服の襟を正し、完成した宣誓書を読み上げた。


 それは、憎らしいほど、よくできていた。


 朗読は一時間に及んだ。条文は百二十七箇条。読み上げるセレンの声は一定で、難解な条項の前では、傍聴席が理解する半瞬の間を、正確に置いた。条文を耳で追える朗読というものを、俺は初めて聞いた。書くのが上手い人間は多い。読ませるのが上手い人間は少ない。聞かせるのが上手い起草者は、大陸に何人もいない。


 交戦規定は民間人保護を最優先に組まれ、捕虜の扱いは人道の極み。病院船と学校と灯台は、いかなる場合も攻撃対象から除外。徴発には対価支払い義務。負傷兵の相互引き渡しは十日以内。開戦後も、両国の子供の相互留学だけは継続する、という条項まであった(第八十八条。この条文だけ、他より、少しだけ文が長い。起草者の祈りは、文の長さに出るのだ)。そして肝心の終戦条件は三本立て。第一、賠償金の完済。第二、宣誓から十年の経過。第三、両国王の合意。九十年戦争の反省をすべて織り込んだ、「人道的な戦争」の設計図だった。会場のあちこちで、感嘆の息が漏れた。これなら、と。


 これなら、戦争をしてもいい――そう思わせる書類こそ、一番危険な書類だ。俺は全条文を書き写しながら、指先が冷えていくのを感じていた。この宣誓書は、戦争への抵抗感という、最後の防波堤を、人道の名で撤去する。


 傍聴席の空気は、朗読の間に三度、変わった。最初は緊張、次に感嘆、最後に――安堵に似た何か。三十年の宙ぶらりんより、設計された戦争の方がましだと、会場の半分が思い始めている気配。それこそが、この宣誓書の一番の脅威だった。


 朗読が終わると、法廷は拍手に包まれた。ギレン王太子までが、静かに手を叩いていた。無理もない。三十年の宙ぶらりんに苦しんできた人々の前に、初めて「設計された結末」が示されたのだ。中身が戦争であることを、拍手の音が、束の間、忘れさせていた。


 質疑の時間、俺は挙手した。


「起草者に、三点」


 壇上の銀縁が、こちらを認めて、わずかに構えた。法廷中の目が、こちらに集まる。西大陸の調停者と、大陸一の法術士。この問答が本日の本番であることを、満場が知っていた。


「第一。終戦条件の一、賠償金の算定式。第十八条別表によれば『戦費実費および損害の累積』とある。つまり、戦が一日延びるごとに、賠償額は増える。敗者は、膨らみ続ける賠償を、焦土になった国庫から払うことになる。――これは完済で終わる戦争ではなく、完済できないから終われない戦争です」


「……続けてください」


「第二。終戦条件の二、十年経過。ただし第十九条但し書き、『交戦状態が継続する場合、起算を停止する』。国境で小競り合いが一つ起きるたび、十年の砂時計はひっくり返る。九十年戦争の記録を読みました。あの九十年間、砂時計が最後まで落ちきったことは、一度もなかった。第三。両国王の合意――それは、この三十年間できなかったことの、再掲です。できることなら、この法廷は要らない」


 俺は一呼吸置いて、言い切った。


「反論します」セレンの声は、揺れなかった。「賠償算定の累積方式は、早期講和への誘因設計です。戦が延びるほど高くつくと知れば、両国は早く終わらせる」


「その誘因が効くのは、帳簿を読む者だけです。戦争を続けるかどうかを決めるのは、帳簿を読む大臣じゃない。息子を殺された母親と、故郷を焼かれた兵だ。彼らの帳簿には、賠償金の欄がない。あるのは、取り返しのつかない欄だけだ。……第十八条は、経済学として正しく、人間について、間違っています」


 セレンは、二の句を継がなかった。壇上で、自分の百二十七箇条を、初めて他人の目で見下ろしている顔だった。


「セレンさん。あなたの宣誓書は、人道的な服を着た――九十年戦争二号だ」


 法廷が、ざわめいた。セレンは反論しなかった。彼女は壇上で自分の条文をめくり、第十八条の別表を読み、第十九条の但し書きを読み――その指先が、紙の上で、止まった。誠実な起草者の不幸は、指摘された欠陥を、自分の目で見つけられてしまうことだ。彼女は顔を上げ、法廷の全員が見ている前で、逃げなかった。


「……計算は、後日、書面で回答いたします。本日の説明会は、これにて」


 法廷の帰り、ギレンが俺の横に並んだ。「……見事な検品だった。だが、勘違いするな。私はまだ、宣誓書の『修理』を待つ側だ。あれが直れば、開戦の旗は降ろさん」。分かっています、と俺は答えた。「ただ、殿下。あなたは今日、開戦宣誓書の欠陥の指摘に、誰より深く頷いてた。……終わらない戦争は、あなたの敵でもある。そこだけは、俺たちは最初から、同じ側です」。王太子は答えず、しかし、否定もしなかった。


 その日の夕方から、俺とセレンの間で、書面の応酬が始まった。彼女は宣誓書の写しに正式な検討依頼状を付けて寄越し、俺は三晩かけて全条文に朱を入れて返した。返ってきた再反論には、俺の朱の一つ一つに、定規で引いたような手蹟の付箋が付いていた。論点は的確で、譲歩は一寸刻みで、こちらの計算違いは二箇所、容赦なく討ち取られた(悔しいが、正しかった)。第十八条を巡る付箋は七枚に及ぶ激論で――しかし、束の一番最後の一枚にだけ、条文と何の関係もない一行が、ぽつんと書いてあった。


『今日の潮風は、書類が湿気ますね。第七条の紙は、湿気に強いものに替えました』


 俺は、しばらくその付箋を眺めて、返送の束の最後に、一枚だけ足した。


『良い判断です。ちなみに湿気た書類は、火鉢の三歩手前で干すのが一番早い。二歩だと焦げます。経験談です』


 翌便の付箋には『二歩で焦がした経験が、おありなのですね』とだけあった。ある。三年前に一敗している。この応酬が何なのか、うちの連中は「文通では」と言ったが、違う。あれは同業者の、休憩時間だ。六百枚の条文の間に挟む、三行の。


 ――三日後の再説明会で、セレンは公式に認めた。満場の前で、逃げ道を全部自分で塞ぐ言い方で。「本宣誓書の終戦条件には、構造的欠陥が三点あります。指摘者は西大陸の調停者。検証者は、私です」。自分の三年の仕事の欠陥を、自分の声で読み上げる起草者を、法廷は静まり返って見ていた。誠実さというのは、ああいう姿勢のことを言うのだと思う。「終戦条件は、再設計を要する」と。会場がどよめく中、彼女は壇上から、まっすぐに俺を見た。


「では、対案をお持ちですか、西大陸の調停者。戦争の設計を潰すだけなら、批評家にもできる。あなたは――何を、書けるのですか」


 待っていた問いだった。俺は、立ち上がった。


「対案を出します。開戦宣誓と同じ拘束力を持つ――『誓える和平』を書く」


 法廷が、今度こそ、割れるようにどよめいた。誓える和平。この大陸の誰も、その四文字を並べたことがなかった。戦争にだけ許されてきた「設計」という技術を、平和の側へ持ち込む宣言だった。壇上のセレンの目が、細くなった。敵意ではない。あれは、同業者が未知の様式を見た時の、あの目だった。

次回「第24話 和平宣誓書という発明」は、9月25日(金)18時30分更新です。

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