第16話 告解秘匿契約
前回:「第15話 灯台守シア」
その翌日、北から二人が到着しました。
「――ただいま。土産は、傭兵団三百人の転職話と、三十五年前の海図と、老王の依頼だ」
「おかえりなさい。こちらの土産は、閑古鳥と、女王の証言と……いえ、後半は後ほど」
再会の挨拶は、それぞれの流儀で交わされました。レーヴェさんはミラベルさんの頭をわしわしと撫で(「大きくなったねえ」「二十日で育つか!」)、ミラベルさんは早速、神童フィン君の愚痴を丸々一刻ぶん、レーヴェさんに聞いてもらっていました(傾聴の女王は、愚痴の九割を聞き流しつつ、「でもあんた、その子の薔薇、綺麗だったんでしょ。よかったじゃん、この大陸にも本物がいて」と急所だけ突き、ミラベルさんを「ぐぬぬ」と唸らせていました)。
宿での情報交換は、深夜に及びました。時の止まった花嫁の部屋。文通の手紙の束と、未開封の最後の一通。ジグさんとの決闘と計画書。旧海図の航路の違い。こちらからは女王の話と、この国の禁忌のこと。灯台のことは――櫛のことだけは、私は、伏せました。確信のないことを口にすべきではない、と自分に言い訳をして。本当は、口にした瞬間に何かが壊れる気がして、怖かったのです。
さて、翌朝。リドさんは私の店の貼り紙と閑古鳥の説明を聞くなり、腕を組みました。
「……つまり、懺悔が精霊に『拾われる』のが問題なわけだ。なら話は簡単だ。拾わない契約を、精霊と結べばいい」
「精霊と、契約」
「考えてもみろ。窓口で守秘義務のない相談窓口に、誰が来る。この国の精霊は、いわば『全部筒抜けの窓口』なんだ。制度の欠陥だよ。悪気はないんだろうが、聞いたものに重さをつける癖がある。……なら、聞かない約束をしてもらう。守秘義務の後付けだ」
「精霊に、守秘義務を……」ミラベルさんが唸りました。「発想が完全に人事課だ……」
「この大陸、口約束が発光する大陸だぞ。精霊が契約の当事者になれない道理がない。交渉窓口は――」
二人の視線が、机の上でインク壺に頭を突っ込んでいる半透明に、集まりました。
レーヴェさんは、この案に最初、首を傾げました。「精霊に『聞かなかったことにして』って頼むの、ずるくない?」。リドさんの答えは明快でした。「西大陸の懺悔も、同じ構造だ。聖職者には守秘義務がある。エルシーの手帳は誰にも見せない。……つまり『聞いた上で、漏らさない仕組み』が信頼の核なんだ。この大陸にはその仕組みがなかった。作るだけだ。ずるじゃなく、制度の輸入だよ」。制度の輸入。三年前、関税のザル法を見つけた人の言葉には、年季がありました。
かくして、大陸史上おそらく初の「人間と精霊界の告解秘匿特約」交渉が始まりました。通訳兼精霊側代表はベッシ。人間側はリドさんが起草し、私が聖職者として立ち会います。交渉は難航――というより、独特でした。条文を読み上げるたび、ベッシが跳ねたり(賛成)、襞を縮めたり(反対)、天井を見上げて固まったり(上位の精霊に照会中、とミラベルさんの解説)するのです。第二条の対価の項では三回跳ねました。現金な精霊です。条文の骨子はこうです。
一、当店の敷居の内側で語られた懺悔を、精霊は「聞かなかったこと」とし、重さを与えない。
二、対価として、エルシーの祈祷書およびリドの業務書類のインクを、精霊に定期供給する(つまり、齧り放題)。
三、秘匿の解除は、懺悔者本人の申し出によってのみ、行うことができる。
条文の検討で、一箇所だけ、私が直しを入れました。第一条の「聞かなかったこと」の原案は「記憶から消去する」でした。私は反対しました。「消去では、駄目です。聞いた上で、抱えたまま、漏らさない。それが守秘です。なかったことにされた告白は、告白した人を、もう一度ひとりぼっちにします」。リドさんは三秒考えて、頷いて、条文を直しました。ベッシも跳ねました。全会一致です。
「第三条は、俺のこだわりだ」と、リドさんは言いました。「秘密ってのは、預けた本人のものだ。預かった側が勝手に開けられる金庫に、誰も秘密を預けない。……懺悔する人を守る条項だよ」
その条項が後にどんな意味を持つか、この時の私たちは、まだ知りません。
契約書を店の床に広げ、ベッシが中央にちょこんと座り、私が祈りの言葉を、リドさんが条文を読み上げると――紙が、ぽう、と青白く光りました。光は波紋のように広がって、店の四方の壁に染み込み、消えました。受理、成立。ベッシは早速、対価の第一回分として契約書の隅を、はむ、と齧りました。原本を齧るのはやめてください。
開店初日の朝、扉の前には、誰もいませんでした。新しい貼り紙――『当店の懺悔は、精霊契約により、外に漏れず、重くなりません。契約書の写し、店内に掲示』――の前で、人々は足を止め、読み、首を捻り、帰っていきます。当然です。三十年どころか、何百年の禁忌が、貼り紙一枚で解けるはずがありません。制度は、最初の一人が試すまで、ただの紙なのです。
最初のお客様は、隣の網元のご主人でした。「あんたが言うなら、騙されてやらあ」と、義理と好奇心が半々の顔で椅子に座り、恐る恐る、囁くように語られた懺悔は「兄弟の網から、若い頃、魚を三匹くすねた」。私は治療を施し(ぎっくり腰でした)、ご主人は店を出て、空を見上げ、恐る恐る深呼吸をして――何も起きないことを確かめると、子供みたいに笑いました。
「……軽い。姉ちゃん、あんたの店、重くならねえ!」
ご主人はその足で兄弟の家へ行き、四十年前の魚三匹を白状して、兄弟で大笑いして、酒になったそうです。翌日、その兄弟の方が店に来ました。懺悔は「実は俺も、あいつの網から蟹を二杯」。兄弟の帳尻は、四十年越しに、だいたい合っていました。
契約成立の夜は、四人での久しぶりの夕食になりました。ポポからの手紙(前脚の爪判つき。『パン、五十個焼ケルヨウニナリマシタ』)を回し読みし、レーヴェさんが北の話の続きを語り、ミラベルさんが「神童に目に物見せる会・第一回会合」を単独で開催し(会員一名)、リドさんは食事の合間も、契約書の写しの余白に何かを書き続けていました。後で覗いたら、『本特約の応用可能性について』という題で、びっしりと構想が並んでいました。この店の小さな契約が、この国の何かを変える予感を、あの人はもう、書式にし始めていたのです。
噂は、三日で街を駆けました。心に鍵を掛けて生きてきた人々が、鍵を開けても大丈夫な場所を、初めて見つけたのです。行列は伸び、四日目には水路の対岸まで折り返し、五日目には整理札を刷りました(リドさん作。『本日の受付は六十名まで。懺悔の予習は不要です。ありのままでどうぞ』)。語られる懺悔は、盗み食い、隠した釣果、姑への悪態、四十年前の初恋の横取り。重さから解かれた人々は、皆、店を出る時、同じことをします。空を見上げて、深呼吸。それから、少し泣くか、少し笑うか。
私の二冊目の手帳は――いえ、この国では手帳は開かないと決めました。秘匿契約の精神に殉じます。メモは、取っていません。神だけが見ています。ちょっと物足りませんが。
そして、七日目の夕暮れ。行列が引けて、店じまいの灯りを落としかけた時、扉が、控えめに叩かれました。
戸口に立っていたのは、潮灼けした、砦のような人でした。
「……あんたの店は、重くならないと聞いた」
灯台守のシアさんが、三十年ぶんの何かを抱えた顔で、そこに立っていました。
次回「第17話 三十年の灯」は、9月18日(金)18時30分更新です。




