第15話 灯台守シア
前回:「第14話 女王の姉」
灯台の麓の漁村で、私たちはまず、灯台守の評判を聞きました。評判は、伝説の域でした。
村は小さな漁村で、船着き場の脇に、奇妙なものがありました。小さな祠です。祀られているのは神像ではなく、古い灯芯が一本。「灯台さまのお下がり」なのだそうです。芯の替え時に出る使用済みの灯芯を、村人が貰い受けて、祀っている。人が現役で生きているうちから信仰の対象になっている例を、私は教会史でも数件しか知りません。
「シア様かい。ありゃあ、海峡の守り神さまよ」
「三十年前にふらっと現れてな、先代の爺さんの弟子になって、爺さんが死んでからは一人で守ってなさる。三十年、一晩も灯りを絶やしたことがねえ。シア様が灯りを守るようになってから、この海峡で沈んだ船は――一隻もねえんだ」
「嵐の晩ほど、灯りが強くなる。わしらは沖で灯りを見るたび、ああ、今夜も見ててくださるって、手を合わせるのよ」
年嵩の船頭さんは、こんな話もしてくれました。十五年前の大時化の晩、舵の折れた彼の船が、真っ暗な海で流されていた時のこと。「もう駄目だと思った時よ、灯りが、いつもより強く、二度、瞬いたんだ。こっちじゃねえ、そっちは瀬だ、って言うみてえにな。言われた通りに流されたら、朝、砂浜に乗り上げてた。全員無事よ。……礼を言いに登ったら、あの人、何て言ったと思う? 『礼なら灯りに言いな』だと。それ以来、うちの船は毎年、初漁の魚を灯台の下に置いてくる」
村の子供たちも、教えてくれました。シア様は怖い。でも、村の子が崖で遊んでいると、どこからともなく「そこは崩れる」と声が降ってくる。時化の前の日は、灯台の旗の結び方が変わって、それが「明日は船を出すな」の合図になっている。誰に頼まれたわけでもないのに、この人は三十年、海と崖と子供を、勝手に見張り続けているのでした。
崖の道を登り、白い灯台の扉を叩くと、返事の代わりに、上から声が降ってきました。
「――油売りなら裏へ。それ以外の用が、灯台にあるものか。帰んな」
螺旋階段の上、レンズを磨く手を止めずにこちらを見下ろしていたのは、五十絡みの女性でした。潮灼けした肌、白いものの混じる髪を無造作に括り、袖をまくった腕は働き者のそれ。無愛想を通り越して、砦のような人でした。
「西大陸から参りました調停者です。お話を――」
「調停。ああ、街で噂の。……悪いが、灯台守に国の話は関係ないね。あたしの客は船だけだ」
「では、船の話を伺いに来た、ということでは駄目でしょうか。海峡の、船の」
「……口の減らない客だね」
ミラベルさんが小声で「今の切り返し、リドみたいだった」と言いました。三年も一緒にいると、口の利き方が移るのです。不本意ですが、役に立ったので、良しとします。
取り付く島もありません。ですが、その時、空模様が味方をしました。急な海霧が崖を包み、風が唸り始めたのです。シアさんは舌打ちをして、それから、ぶっきらぼうに言いました。
「……荒れる。今から山道を降ろすわけにはいかない。入んな。茶ぐらいは出す。海が荒れる日に人を追い返すのは、灯台守の名折れだ」
砦は、無愛想なだけで、扉のない砦でした。
中に入ると、ベッシが、私の肩から降りて、床にぺたりと平たくなりました。ミラベルさんが目を丸くして囁きます。「……最敬礼だ、あれ」。シアさんは半透明の来客に気づき、「なんだい、あんたの連れかい」と眉を上げ、それから、ごく自然に、小皿に水を汲んで床に置きました。「精霊さんへの茶ってのは、これでいいのかね」。ベッシは水の縁を、はむ、と齧るふりをしました(水は齧れないのです。礼儀として齧るふりをしたのだと思います)。精霊への作法が、身体に入っている人でした。三十年、精霊に見られて暮らすと、こうなるのでしょうか。それとも――精霊の国の姫君は、生まれつき、こうなのでしょうか。
灯室までの螺旋階段は百段余り。壁の要所要所に、手入れの行き届いた予備のランプと、油壺と、磨き布が、寸分の狂いもない間隔で掛けられていました。三十年分の几帳面が、階段にまで染みています。灯室で頂いた茶は、驚くほど丁寧に淹れられていました。茶葉は安物なのに、湯の加減と蒸らしが完璧なのです。丁寧に生きている人の茶でした。
ミラベルさんは巨大なレンズに張り付いて感嘆の声を上げました(「この集光構造、詠唱の魔力収束と同じ理屈だ! ねえ、この光軸の調整、手動!? 毎晩!?」「毎晩さ。機械は狂うからね」「三十年、毎晩の手動調整……それはもう、詠唱だ……」)。シアさんは呆れ顔で、けれど問われるままに、灯りの仕組みを説明してくれました。芯の切り方、油の量り方、霧の夜の焚き増しの手順。話す言葉の全部が、実務でした。実務の言葉だけで三十年を語れる人の、実務の向こうが、ふと、零れました。
「……灯りはね、届く先を選ばないんだ。北の船も、南の船も、敵の船も、味方の船も、等しく照らす。それだけが、こいつの取り柄さ。三十年磨いてきたが、こいつが誰かを選り好みしたことは、一度もないよ」
その声の、静かな誇りを聞いた時――私の胸元で、聖印が、みし、と鳴りました。
覚えのある感触でした。三百年分の懺悔を封じられていた、あの方の前で聞いたのと、同じ軋み。けれど、少し違う。あの方の心は、外から鎖で封じられていました。この方の心は――内側から、ご自分で、鍵を掛けている。三十年もの間、毎晩、鍵の錆を確かめながら。
私は、何も言いませんでした。言えるはずも、ありません。鍵を開けることが禁忌の国で、自分の鍵だけを三十年守ってきた人に、初対面の他所者が、何を言えるでしょう。
霧が晴れ、辞去の挨拶をして階段を降りる時でした。灯室の隣、開け放しの私室の戸口から、棚の上が、目に入りました。
簡素な部屋でした。寝台と、繕い物の籠と、聖典が一冊。ただ一つ、棚の中央に、それは大切に置かれていました。
色褪せた、白い貝の櫛。波の形に、彫られた。三十年、毎日手に取られてきたのでしょう、彫りの峰だけが、飴色に艶を帯びていました。
――母の形見の櫛が一つきり。白い貝を、波の形に彫った櫛です。
昨日の女王の声が、耳の奥で、鳴りました。私は視線を戻し、何も見なかった顔で、扉をくぐりました。心臓だけが、うるさく鳴っていました。階段を降りる百段の間、私は自分の顔から、何も、漏らさないことだけを考えていました。
帰りの崖道で、ミラベルさんが言いました。「いい人だったね、シアさん。無愛想だけど。……あの人の魔力、視たんだけどさ。静かで、深くて、海みたいだった。魔導士でもないのに、あんな澄んだ魔力の人、初めて見た」。そうですね、と私は答えました。声が上ずらないように、それだけ気をつけて。三十年、たった一つの誓いだけで生きると、人の魔力は、ああなるのかもしれません。
女王の謁見の間の、布の掛かった額。北の城の、開かれない手紙。そして岬の上の、色褪せた櫛。三十年前に沈んだはずのものたちが、実は全部、それぞれの場所で、息をひそめて生きている。……真実とは、なんと近くに、なんと言い出せない形で、あるものなのでしょう。
神は見ています。私も、見てしまいました。
次回「第16話 告解秘匿契約」は、9月17日(木)18時30分更新です。




