第14話 女王の姉
前回:「第13話 懺悔が禁忌の国」
リズレア王宮は、白い石と青い硝子の宮殿でした。廊下の窓はすべて海に向いて開かれ、潮騒が、宮殿の呼吸の音のように満ちています。壁の硝子には波紋の紋様が焼き込まれ、光の加減で、廊下全体が海の底のように揺らめきました。美しい宮殿です。ただ、窓という窓が海を向いているのは、意匠だけの話ではないのでしょう。この宮殿は、三十年、海から帰らない人を、全部の窓で待っているのです。通された謁見の間で、侍従長は私たちの持ち物を検め、ミラベルさんの杖のところで、それはそれは長く葛藤していました(結局「詠唱には九分五十一秒かかる」という私の説明が、最強の安全保障として通りました。本人は複雑な顔をしていました)。
リズレア女王ミレイユは、波を織った青いドレスの、静かな威厳のある方でした。御歳四十四。三十年前――姉君を失われた時は、十四歳の少女だったことになります。玉座の背後の壁には、歴代の王族の肖像が並び、その中に一枚だけ、布の掛けられた額がありました。誰の肖像かは、聞くまでもありませんでした。この国は、姉君の顔を、飾ることも外すこともできないまま、三十年、布を掛けているのです。
謁見には、廷臣が十数名、陪席していました。海軍の提督が二人、露骨に腕を組み、財務の老臣が眠ったふりをし、若い書記官だけが、私たちの一挙一動を熱心に記録していました。北の宮廷と、驚くほど同じ配置です。三十年憎み合った国同士は、宮廷の座り方まで似るのです。
「ヴァルムの言い分は、もうお聞きになったのでしょう」
最初の言葉には、薄い棘がありました。私は同時訪問の通告文の写しをお見せし、こちらの半分は貴国に先にも後にも伺っていないことを、書面で示しました。女王はそれを黙読し、棘を、少しだけ納めました。
「……調停は、望みます。この国の民に、九十年戦争の再演をさせたい王など、おりません。開戦を叫ぶ廷臣たちとて、半分は、叫ばねば忠義を疑われるから叫ぶのです。三十年も経つと、憎しみは、作法になる。作法は、誰にも止められない。ですが」
女王は、玉座の背もたれから、身を起こしました。
「姉の死を『なかったこと』にする和平ならば、要りません。真実の伴わない紙に、私は調印しない。それだけは、先に申し上げておきます」
「差し支えなければ――お姉さまのことを、聞かせていただけますか。政略の花嫁、という記録しか、私どもは存じません。記録の外のお姉さまを知らずに、記録の外の弔い方は、探せませんので」
女王は、しばらく黙りました。人払いを、と侍従長に告げ、広間に私たちだけが残ってから、記録には残らない話を、してくださいました。話の間、女王の指は、ずっと、ドレスの袖の波の刺繍をなぞっていました。姉君の得意だった刺繍の柄を、即位以来、自分の衣装に入れさせているのだと、後に侍女から聞きました。
姉セラフィナは、泳ぎの名手だったこと。幼い自分に泳ぎを教えてくれたのも姉で、「海で怖いのは波じゃない、慌てる心よ」というのが姉の教えだったこと。海の民の姫として、嵐の日ほど灯りを絶やすなと口癖のように言っていたこと。縁談が決まった日、姉は義務の顔をしていたこと。けれど文通が始まって半年もすると、北から手紙が届く日の姉は、朝から髪を三回も結い直していたこと。
「一度だけ、姉の文机で、出し損ねた下書きを見ました。『ドルン様の字は、鉄の国の方なのに、あたたかい』と書いてありました。……政略で始まった縁でした。でも姉は、輿入れの朝には、恋をしておりました。嫁入り道具は簡素に、と自分で決めて、袖に入れて行ったのは、母の形見の櫛が一つきり。白い貝を、波の形に彫った櫛です」
北の城の、時の止まった部屋。手紙の束の厚み。未開封の、最後の一通。そして、南の女王の記憶。三十年前、二つの国の間には、確かに、始まりかけた愛がひとつ、あったのです。それが海に沈んで、憎しみだけが岸に打ち上げられた。
「姉が消えた朝から、私の国は変わりました。父は姉の名を呼ばなくなり、廷臣は北を罵ることが忠義になり、私は……姉の泳ぎの上手さを口にすることさえ、できなくなりました。『それほどの名手が、なぜ』と、話がそこへ行ってしまうから。……調停者どの。ひとつ、伺います。あなた方の国では、死者の無念は、どう扱うのですか」
「無念は、真実で弔います。憎しみで弔われた死者を、私はまだ、見たことがありませんので」
「……真実が、無念を深くするだけのものであったら?」
「それでも、です。弔いというのは、死者のためのようでいて、残された者が『ちゃんと悲しむ』ための手続きです。憎しみは、悲しみの席を横取りします。陛下は三十年、姉君を憎しみ越しにしか、悲しめていらっしゃらないのではありませんか。……真実は、少なくとも、悲しみの席を、返してくれます」
女王は、長いこと私を見て、それから初めて、口元だけで微笑まれました。
「……姉が生きていたら、あなたのような物言いを、好んだでしょうね。姉も、綺麗事を綺麗なまま通そうとする、意地っ張りでしたから」
辞去の間際、女王は付け加えました。「大潮の日の儀は、止められるものなら、止めてごらんなさい。私とて、望んで宣誓するのではない。……三十年、真実を待って、待ちくたびれた者が、他にどうすればよいのか、分からぬだけです」。玉座の上の孤独が、その一言だけ、少女の声をしていました。十四歳のまま、姉の帰りを待ち続けている少女の声を。
国が丸ごと、答えを待って三十年、立ち尽くしている。北も、南も。答えを知る者が、どこかに、いさえすれば。……この時の私は、その「どこか」を、すぐに見つけてしまうことを、まだ知りません。
*
王宮からの帰り道、海沿いの崖の道で、ミラベルさんが急に立ち止まりました。視線の先、海峡の岬に、あの灯台が白く立っています。彼女の肩には、いつの間にか私の肩から移動したベッシが乗っていて、灯台に向かって、ひらひらと襞を揺らしていました。見たことのない揺らし方でした。強いて言えば、目上の方への、ご挨拶のような。
「……ねえ、エルシー。ベッシがさ、変なこと言ってる」
「精霊の言葉が、分かるのですか」
「なんとなくだけど。精霊魔法の入門書を三冊読んだ成果だ。……あの灯台、精霊が『住んでる』って。通りすがりじゃなくて、住み着いてるって。精霊が住み着くのは、強い誓いのある場所だけのはずなんだ。それも、毎日、更新され続けてる誓い」
「毎日、更新……」
「入門書によれば、だよ。一度きりの誓いに宿った精霊は、成就か破約で離れる。でも、終わらない誓い――毎日果たして、毎日また誓い直すような誓いには、精霊が『定住』する。書物には『大陸に数例のみ』とあった。神殿とか、王家の礎とか、そういう規模の話でさ。……岬の灯台に一つ、って規模の話じゃ、本来ないんだよ」
毎晩、灯りを点す。それだけのことが、精霊の世界では、神殿に等しい重さで観測されている。誓いの中身を、この時の私たちは、まだ知りません。ただ、ベッシの襞の、あの敬意のこもった揺れ方だけが、答えの重さを、先に教えていました。
三十年、消えたことのない灯り。精霊が住み着くほどの、毎晩更新される誓い。
行ってみましょう、と言ったのは、私でした。
次回「第15話 灯台守シア」は、9月16日(水)18時30分更新です。




