第13話 懺悔が禁忌の国
前回:「第12話 傭兵団、転職を検討する」
◆ここからしばらくは、潮の国側の記録です。記録係は私、エルシーが務めます。リドさんの独白より、几帳面にお届けする所存です。
潮の国リズレアの都は、白い街でした。貝殻を混ぜた漆喰の壁、街を巡る水路、家々の軒先に吊るされた小さな鈴。水路には小舟が行き交い、舟同士がすれ違う時は、互いに鈴を一度ずつ鳴らします。「お先にどうぞ」の合図なのだそうです。人々は食事の前にスープを一滴、水路へ返します。「海の精霊さまのお相伴」なのだそうです。信仰が暮らしに溶けた、美しい国です。物価は魚が安く、鉄物が高く、帳簿的にはヴァルムの正確な裏返しでした。二つの国は、経済の形まで、合わせ鏡なのです。
そして私は上陸三日目、この美しい国で、開業以来初の経営危機に直面していました。
「回復屋、閑古鳥です」
港の一角に借りた店には、初日から誰も来ません。正確には、来るには来るのです。腕を吊った漁師さん、腰の曲がったおばあさん、熱っぽい子を負ぶった母親。皆さん、扉の前まで来て、貼り紙を読んで、青ざめて帰るのです。おばあさんに至っては、貼り紙に向かって拝んでから帰られました。何かの厄除けと思われたようです。貼り紙にはこう書いてあります。『治療いたします。お代は銅貨三枚と、懺悔ひとつ』。
四日目、ようやく理由を教えてくれたのは、隣の網元のご主人でした。
「姉ちゃん、悪いことは言わねえ、その貼り紙は下ろしな。……この国じゃあ、罪を声に出しちゃならねえんだ。声に出した罪は、精霊さまが拾っちまう。拾われた罪は、重さを持つ。運が傾き、網が破れ、船が軋む。だからみんな、心に鍵を掛けて生きてるのさ。自分の口で罪を言うなんて、正気の沙汰じゃねえよ」
「では、皆さんは、抱えた罪を、どうなさるのです」
「どうもしねえよ。墓まで持ってく。それが、この国の身の処し方ってもんだ」
「重く、なりませんか。それは」
ご主人は、少し黙って、海の方を見ました。
「……なるさ。年を食うほどな。だからこの国の年寄りは、みんな無口になる。抱えてるもんが増えて、口を開くと零れそうになるからよ。うちの親父も、死ぬ前の十年は、ろくに喋らなかった。……最期の晩にな、一言だけ、『海に、すまんことをした』と言った。何のことか、誰も知らねえ。聞き返す前に、逝っちまった」
この国の墓地には、そうやって持ち込まれた無数の鍵が、埋まっているのです。私はこの日から、リズレアの美しい白壁が、少し違って見えるようになりました。あれは、白い漆喰の下に、言えなかった言葉を塗り込めてきた壁です。
なるほど、と思いました。誓いが力を持つ大陸なら、告白もまた、力を持ってしまう。私の力の前提が、この国では、文化ごとひっくり返っているのです。三年間、人の心の鍵を開ける側だった私は、鍵を開けてはいけない国に来て、初めて気づきました。鍵を掛けたまま生きるのは、どれほど、重いことか。街の美しさの下で、この国の人々は全員、生涯分の重さを、黙って提げて歩いているのでした。
五日目、私は試しに、貼り紙を書き換えてみました。『治療いたします。お代は銅貨五枚。懺悔は不要です』。……するとどうでしょう、開店前から行列ができました。商売としては、正解です。ですが、三人目の患者さん――網の擦り傷を治した若い漁師さんが、お代を払いながら、ぽつりと言ったのです。「なあ、姉ちゃん。さっきの貼り紙の、前のやつ……あれさ、もし、もしもの話だよ。ほんとに、重くならねえなら……いや、なんでもねえ」。なんでもなくない目をしていました。鍵を開けたい人は、いるのです。開けても大丈夫な場所が、ないだけで。
私は夕方、貼り紙を元に戻しました。行列は、また消えました。それでいいのです。私の店は、傷を治す店ではなく、本当は、重さを預かる店なのですから。
「神は見ています。私も見ています。……見ているのに、誰も、話してくれない」
肩の上のベッシが、慰めるように、私の祈祷書のインクを齧りました。齧らないでください。
*
一方その頃、ミラベルさんは、別の戦場で敗走していました。
都の丘の上に建つ、精霊魔導院。この大陸の魔法の総本山です。白亜の塔と回廊に、精霊を宿した燈火が揺れる、それは荘厳な学び舎で――彼女は乗り込んで早々、中庭で詠唱の披露を申し出て、そして。
「――九分、五十一秒?」
噴き出したのは、集まった魔導士たちの中でも一番若い、白い法服の少年でした。歳は十五ほど。癖のある銀髪、生意気を絵に描いたような目。
「ごめん、笑うつもりはなかったんだ。ただ、単位を聞き間違えたかと思って。九『秒』の間違いじゃなく?」
「九分五十一秒だ! 短縮に短縮を重ねた、栄光の数字だぞ!」
「その栄光の九分の間に、僕なら同じ規模を十回は撃てるね」
少年は指を一つ鳴らしました。中庭の噴水の水が、音もなく立ち上がり、宙で薔薇の形を結んで、崩れました。詠唱、ゼロ。仕草ひとつ。周囲の魔導士たちが「さすがフィン様」「神童は格が違う」とざわめきます。
「精霊にお願いすれば、力は一瞬で借りられる。詠唱っていうのはさ、精霊と話す言葉を持てなかった古代人の、遠回りな独り言でしょ。ご苦労なことだと思うよ、ほんと」
「なっ……独り言……!? 私の十一分――もとい九分五十一秒を……!」
「はいはい、お引き取りはあちら。ここは魔導院であって、演説会場じゃないんで」
――ただ、これは後からミラベルさんに聞いた話ですが。悔し紛れに彼女が捨て台詞代わりの一節だけ、詠唱の冒頭を口にした時。『一年前、魔王城において――』。取り巻きたちが嘲笑する中で、フィン君だけが、笑うのをやめて、ほんの一瞬、真顔になったそうです。「……今の、様式、何?」と。彼女はそれに気づく余裕もなく退場したのですが、私は思うのです。本物は、本物の匂いに気づくものだと。
その夜、宿に帰ってきたミラベルさんは、枕に顔を埋めて足をばたばたさせていました。悔しかったのでしょう。それはもう、盛大に。
「おのれ神童……おのれ無詠唱……次に会ったら目に物見せて……でも確かにあの薔薇は綺麗だった……悔しい……技術は認める……でも悔しい……!」
「認める部分は認めるのが、あなたの美点ですね」
「うるさい! でも薔薇の水の粒の揃い方は本当に見事で……ああもう、悔しい!」
悔しがりながら、彼女はその晩、手帳に何かを書き付けていました。翌朝ちらりと見えた頁には、『無詠唱の観察記録・一』とありました。敗走した戦場の記録を、その晩のうちに研究に変える。この人のこういうところを、私は、静かに尊敬しているのです。
二人揃って、見事なまでのアウェイでした。この国で、私たちの武器は、二つとも封じられている。そう思い知った五日目の朝、宿に王宮からの使者が来ました。
「女王陛下が、西大陸の調停者にお会いになります」
使者を見送ってから、ミラベルさんは寝癖のついた頭で言いました。「……謁見って、正座するんだっけ」。しません。あれは、うちの西大陸での悪癖です。念のため、玉座の間での禁止事項を三つ、紙に書いて持たせました。一、詠唱しない。二、「絶対」と言わない。三、敬称を忘れない。紙に書けば、この人は守るのです。書かないと、守らないのですが。
次回「第14話 女王の姉」は、9月15日(火)18時30分更新です。




