第7話 花嫁の部屋
前回:「第6話 二つの招請状」
鉄の国ヴァルムは、匂いから違った。炭と、鉄粉と、焼けた油。息を吸うたび、喉の奥に薄く金気が残る。
潮とインクの街ポルトネラから馬車で北へ五日。山肌に張り付く鉱山の櫓、立ち並ぶ鍛冶場の煙突、空を薄く煤けさせる煙。街道を行き交う荷は鉄床と炭と槍の穂先で、人々の挨拶は短く、握手は岩みたいに固かった。質実剛健を国の形にしたら、こうなるのだろう。
国境の関所では、俺たちの入国書類が例によって精霊を三匹呼び、審査官を絶句させた。ただし、ここの審査官はポルトネラのように拝まなかった。無言で通行印を捺し、無言で一礼した。感嘆を表に出さないのも、鉄の国の作法らしい。関所を抜ける俺たちと入れ違いに、軍靴の列が南へ下っていった。若い兵の顔は緊張で強張り、古参の顔は、何も読ませなかった。
「……行軍の音って、さ」馬車の中で、レーヴェがぽつりと言った。「鎚の音に、似てるんだね。かん、かん、って。同じ鉄の音なのに」
城下に着いた初日の宿で、女将が夕食の皿を置きながら、世間話のついでに言った。「お客さん方、調停者様なんだろ。……早いとこ、頼むよ。うちの息子、十七でね。宣誓が出たら、二番目の徴兵籍だ」。言ってから、女将は慌てて笑い、「ああ、いや、商売柄、戦の方が宿は儲かるんだけどね。兵隊さんの家族が面会に泊まるから」と付け加えた。儲かるけど、頼むよ。その二つを同じ口で言わなければならないのが、この国の三十年だった。
翌日の登城には、監視が付いた。ギレン王太子の指図で、若い武官が一人、俺たちの「案内役」として同行するのだという。武官は生真面目な男で、俺たちの言動を逐一手帳に書き取った。あまりに逐一なので、俺が「その手帳、書式を整えると後で読み返しやすいですよ」と余計な世話を焼いたら、翌日から本当に整った書式で監視記録を付け始めた。監視される側が監視の質を上げてどうする、と、レーヴェには笑われた。
ちなみに旅の供は俺とレーヴェの二人である。ポポは「パン代を稼ぐ」と言ってポルトネラのメルヴィナ商会支店で荷運びの職を得た。密航土竜、着実に社会復帰している。
ヴァルム王城の謁見の間は、飾り気のない石造りだった。玉座には老王ドルン。六十三歳と聞いていたが、それより十は老けて見えた。岩に彫った彫像のように動かず、目だけが、深い。
そして玉座の脇に立つ若い男が、開口一番、こう言った。
「西大陸の調停者殿。単刀直入に伺う。あなた方は、リズレアからいくら貰った?」
「ギレン!」
老臣が窘める。王太子ギレン、二十六歳。主戦派の筆頭。彼は謝罪せず、まっすぐ俺を睨んだ。敵意というより――検品の目だった。この男は、俺たちが本物かどうかを試している。
「一枚も。報酬はポルトネラ評議会からの日当です。金額はこちらの契約書の写しの通り。原資は両国の商人の等分拠出です。ついでに申し上げると、リズレアにも本日同時刻、うちの半数が同じ説明をしています。訪問の先後で貴国と相手国に差をつけないためです」
契約書の写しと同時訪問の通告文を差し出すと、ギレンは本当に全文を読んだ。一言一句、指で追って。読んで、わずかに眉を動かした。
「……同時訪問。国名の記載順の注記まで。小賢しい書式だ」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていない。……だが、リズレアに先を越されたのでも、後回しにされたのでもない、という一点だけは、認める」
生真面目な男だ。厄介なことに、敵意まで生真面目だった。こういう相手は、嘘で転ばせることはできない。だが、事実でなら動く。覚えておくべき性質だった。
謁見の帰り、廊下でギレンが追ってきて、俺の前に立ち塞がった。
「調停者殿。一つだけ、聞いておく。……三十年前の船の件、貴殿はどちらが沈めたと考えている」
「まだ、何も。着いたばかりなので」
「逃げるな。心証で構わん」
「では、心証で。――『どちらが沈めたか』という問いの形そのものを、俺はまだ信用していません。三十年、その問いの形で調べて、答えが出なかったんでしょう。なら、問いの形が違うのかもしれない」
ギレンは眉を寄せ、「詭弁だ」と言い捨てて去った。だが去り際の背中が、一瞬だけ、迷った。生真面目な男は、問いの形の話に、弱いのだ。自分でも三十年、同じ問いを抱えて答えが出ていないなら、なおさらに。
老王ドルンは、謁見の間、最後まで、一言しか発しなかった。
「……ゆるりと、見ていかれよ」
その一言の意味を、俺はその夜、知ることになる。
滞在の実務調整で城の会計官と帳簿の話をしていた時だ(この国の会計官は優秀だった。話が早くて助かる。ついでに言うと、軍事費の頁は三十年間、一度も減額されたことがなかった。民生の頁は、その逆だった。冷戦の形は、帳簿に一番正直に出る)。年間予算書をめくっていた俺の指が、ある項目で止まった。
『北翼三階・一号室 維持費 金貨十二枚』
「この一号室というのは?」
会計官の顔から、すっと表情が消えた。
「……その項目には、触れられませんよう。三十年間、毎年、陛下の内帑金から計上されております。監査も、質問も、慣例により、いたしません」
三十年間、毎年。使われていない部屋に、王のポケットマネーで。金貨十二枚。月に一枚。几帳面な、祈りのような数字だった。
夜、部屋に戻る廊下で、老いた侍従が音もなく俺の前に現れ、無言で一礼し、ついてくるように目で示した。北翼の階段。三階。突き当たりの、一枚の扉。侍従は鍵を開け、ランプを掲げた。
――そこは、三十年前のまま、時が止まった部屋だった。
埃ひとつない婚礼衣装が、衣桁にかけられている。埃ひとつない、ということは、三十年間、毎日、誰かが払い続けたということだ。鏡台には海貝の櫛。海の国の意匠だ。窓辺の文机には、色褪せたリボンで束ねられた手紙の山。差出人の署名は、流れるような字で「セラフィナ」。政略の花嫁と花婿は、輿入れの前の二年間、文通をしていたのだ。手紙の厚みが、二年分の心の厚みだった。束の一番上の一通だけ、封が切られていなかった。消印の日付は、輿入れの十日前。……船より遅れて届いた手紙を、受取人は、三十年、開けられずにいるのだ。読んでしまえば、それが最後の一通になる。読まなければ、まだ「次の手紙」のままでいられる。未開封の封蝋が、この部屋の時間の、栓だった。
レーヴェは、部屋の入り口で足を止めたまま、入らなかった。入れなかったのだと思う。彼女は声を出さずに泣いていた。この部屋は、まるごと一つの、開かれなかった手紙だった。
「陛下は」侍従が、囁くように言った。「月に一度、この部屋の窓をお開けになります。……海の方角の、窓を」
窓の外、南の夜空の果てに――あの、瞬かない光が、小さく見えた。
部屋を辞して階段を降りる俺の耳に、城下から、音が届いた。かん、かん、かん。夜を徹して打たれる、鎚の音。
戦の支度の、音だった。三十年前で止まった部屋の真下で、時間だけが、開戦へ向かって打たれ続けていた。この城には、二つの時計がある。止まった時計と、進みすぎる時計。調停者の仕事は、その両方を、正しい時刻に合わせ直すことなのだろう。……時計の修理は、窓口の職掌外だが、やるしかない。
次回「第8話 戦争が食わせる町」は、9月9日(水)18時30分更新です。




