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第5話 別紙一号

前回:「第4話 法術士セレン」

「こら! それ原本!」


 摘み上げると、それはぷるんと震えて、俺の手のひらに、ちょこんと収まった。半透明の丸い体、ひらひらした襞、つぶらな目がふたつ。重さは、ほとんどない。手のひらに乗せた感触は、よく冷えた水まんじゅうに近い。宿の主人が覗き込んで、ああ、と笑った。


「海の子精霊でさあ。珍しいね、人前に出てくるのは。……インクを齧ってたって? そりゃあお客さん、あんたの書類が極上だからだ。精霊はね、『誓いの言葉が染みたインク』が大好物なんでさ。誓いの密度が高い書類ほど、うまいらしい」


「俺の書類、精霊的にグルメだったのか……」


「誇っていいよ、それは」とレーヴェ。誇り方が分からない。三年間、真面目に書式を磨いてきた成果が、まさか海の向こうで小動物(?)の餌の等級として評価されるとは、人生は分からないものである。


 こうして始まった小精霊の観察は、この大陸のルールを学ぶ最良の教材になった。


 実験一。エルシーが棒読みで「私は明日、絶対に早起きします」と誓ってみせる。精霊、露骨にそっぽを向く。心の伴わない誓いは、精霊が受理しない。「受理審査があるんですね」と聖女が感心した。実験二。レーヴェが「あんたの身の上、聞かせてくれない?」と話しかける。精霊、懐く。懐きすぎて頭に乗る。言葉は通じないのに、懐く。「傾聴は言語より深い」という剣聖流の教義が、種族の壁も越えた瞬間である。実験三。ミラベル「小さき精霊よ、我と契約せよ!」精霊、全速力で逃げる。「なんでだよ!?」「日頃の詠唱で近隣の精霊を騒がせてるからでは」。実験四。ポポと対面させる。精霊と土竜、しばし見つめ合い、なぜか互いに一礼した。異種族の礼儀は、時々、人間より正しい。


 ベッシの食性も、次第に分かってきた。好物は「守られた誓い」の染みたインクで、熟成したものほど喜ぶ。逆に「破られた誓い」の紙には近寄らず、襞を縮めて震える。試しに古物商で買った百年前の婚姻誓約書(守られて満期を迎えた、めでたい紙だ)を与えたら、悶絶して喜び、三日、俺の鞄から出てこなかった。精霊の世界にも、当たり年のワインみたいな概念があるらしい。


 実験五は、俺の職業的興味だった。同じ文面の誓約書を二枚書く。一枚は俺が本気で「期日までに報告書を出す」と思って書き、もう一枚は白を切る気で書く。文面は一字一句同じ。インクも同じ。……ベッシは、前者だけを齧った。後者には、襞の先すら触れない。つまりこの大陸では、精霊が「意思の真贋」を判定している。書式は完璧でも、心が偽なら、受理されない。俺は少し、震えた。窓口五年、俺は「書式の真贋」までしか見抜けなかった。この大陸の窓口は、その先を見る。……三十年前の真相とやらも、どこかの精霊は「見て」いたのではないか? この思いつきは、手帳の要確認の頁の、三行目になった。


 問題は呼び名だった。会議の間も膝に乗ってくるので、俺は議事録の出席者欄に、ひとまず書類上の仮称を記載した。


『出席者:リド、レーヴェ、エルシー、ミラベル、別紙一号(精霊・種別不明)』


「……別紙一号」


 読み上げた瞬間、精霊が、ぴょこん、と跳ねて返事をした。


「「「「あ、定着した」」」」


 撤回を試みた。「別紙一号は仮称で、正式には」――言い終わる前に、精霊はもう一度、ぴょこんと跳ねた。本人(本精霊)が気に入ってしまっては、どうしようもない。以後、そいつはベッシと呼ばれることになった。名前を仮置きしたらそのまま本採用になる呪いは、海を越えても健在らしい。うちのパーティ名と、同じ運命である。ベッシは呼ばれるたびに跳ね、俺の書類鞄を寝床に定め、上等な誓約書のインクの匂いがすると襞を全開にした。精霊界の書類グルメである。


 ――そのパーティ名について、この街ではもう一つ、事件が起きていた。


「歴史を背負いし調停者、カコ・カリ様の御一行だ!」


 市場を歩いていたら、拝まれた。老婆に手を合わせられ、子供に「カコ・カリの人だ!」と指をさされ、串焼き屋に「お代はいりません」と言われた(払った。日銭専門は、貰う側の帳尻にも厳しいのだ)。聞けば、現地語で「カコ・カリ」は「過去を借りる者」を意味し、転じて「歴史を背負う者」――先人の誓いを引き継ぎ、果たす者への、最上級の尊称に聞こえるのだという。西大陸で三年間「かっこかり(笑)」だった名前が、海を渡った途端、伝説の二つ名になった。


「うちの名前が、初めて格好よく聞こえる……癪だな……」


「いいじゃないか! 歴史を背負う者! 名乗ろう、堂々と!」


「ミラベルは黙っててくれ。由来を説明する羽目になった時、恥をかくのは俺なんだ」


「由来も込みで、いい名前だと思いますけどね」とエルシーが笑った。「『仮』のまま、本物の仕事をしてきた名前です。過去を借りる者、当たらずとも遠からずですよ。私たちの信用の元手は、全部、過去の実績――つまり借り物ですから」


 聖女に纏められると、妙な説得力があった。信用の元手は過去。だからこそ、実績は正確に、名前は誠実に。窓口の教義と、だいたい同じである。


 カコ・カリの名は、その日のうちに独り歩きを始めた。夕方には評議会が「調停者カコ・カリの一行、当評議会の依頼により滞在中」の公示を出し(俺たちの安全のためだそうだ。名が知れているほど、手を出しにくくなる)、夜には宿の前に小さな列ができた。持ち込まれるのは、隣人との境界争い、船の共同購入の揉め事、婚礼の日取りの誓いの解釈問題。……国際調停に来て、町内の窓口業務が始まってしまった。断り切れずに三件だけ受けた(全部、書式一枚で片付いた。この大陸の民事は、誓いの文言の解釈が九割である)。三件目の依頼人の婆さんは、帰り際に言った。「あんた、いい窓口だね。うちの国同士も、あんたみたいな窓口で話せりゃよかったのに」。……それをやりに来たんです、と心の中で答えた。


 夜、宿に、重厚な封蝋の書状が届いた。鉄の国ヴァルムの国章。開いたレーヴェが、眉を上げた。


「招請状だ。『調停者殿。リズレアの讒言に耳を貸す前に、まず我が国の言い分を聞かれよ』……だってさ」


「『前に』、ね。……賭けてもいい。明日の朝には」


 翌朝、潮の国リズレアから、同文同旨の招請状が届いた。『ヴァルムの虚言に惑わされる前に、まず我が国へ』。二通を並べると、恐ろしいほど左右対称だった。相手を貶す言葉の選び方まで、鏡写しである。三十年、互いだけを見て憎み続けた国同士は、文体まで似るのだ。


 二通の招請状を検分していて、俺はもう一つ、気づいたことがあった。どちらの書面にも、誓いの光の痕跡――精霊の寄った気配が、まるでない。国王名義の外交文書だぞ。試しにベッシを近づけたら、二通とも、そっぽを向かれた。つまり、どちらの招請状も、書いた人間が一言も「誓って」いない。憎悪の言葉は威勢がいいのに、誓いはひとつも載っていない書面。……三十年目の冷戦の正体を、精霊の食欲が教えてくれた気がした。この戦争、実は誰も、心の底からはやりたがっていないのではないか?


 三十年物の冷戦は、挨拶の順番からして、地雷原だった。だが地雷原の地雷が、実は全部、埋めた側も踏みたくない地雷だとしたら――除去の書式は、きっとある。

次回「第6話 二つの招請状」は、9月7日(月)18時30分更新です。

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