第4話 法術士セレン
前回:「第3話 書類が魔法の大陸」
入ってきたのは、群青の法服の女性だった。歳は俺と同じくらい。銀縁の眼鏡、きっちり結った髪、腕に抱えた書類の束は角が完璧に揃っている。指先にインクの染みが三箇所。右手の中指に、厚いペンだこ。歩幅が一定で、足音が静かで、扉の閉め方に音がなかった。所作の全部が、書類を扱う人間のそれだった。
彼女は名乗る前に、円卓の上の俺の資料――さっき審査官が拝んでいた例の書類の写し――に、目を留めた。三秒、視線が走る。そして彼女は、手にしていたペンを、ぽろ、と落とした。
「……この読点の設計。附則の参照構造。起草者は、どなたですか」
「俺ですが」
「……………………そう」
長い沈黙の間に、彼女の視線は俺の顔と書類を三往復した。値踏みではない。照合だ。書類と書き手が一致するかどうかの、俺もよくやるやつである。
彼女はペンを拾い、深呼吸を一つして、一礼した。
「誓約庁筆頭法術士、セレンと申します。開戦宣誓書の起草を、拝命しております」
名乗りの声は平坦で、職名の途中、「開戦」の二文字のところだけ、ほんのわずかに、低くなった。
一方の俺はといえば、彼女が入室時に壁の掲示へ無造作に貼り直した一枚――港湾利用規約の改定告知――を読んで、鳥肌を立てていた。完璧だった。例外処理の網羅、解釈の余地の完全な封殺、それでいて誰が読んでも三十秒で要旨が取れる文章構造。しかも改定箇所には、旧文との対照が、読み手の記憶の負担を最小にする順で並んでいる。世界は広い。俺と同じ生き物が、海の向こうにもいた。
同族と出会った時、人は歩み寄るか、身構える。俺たちは、同時に身構えた。歩み寄るには、互いの背負っている結論が、正反対すぎた。
「単刀直入に伺います、西大陸の調停者殿。あなた方の目的は、開戦宣誓の阻止ですね」
「戦争の阻止です。宣誓はその手段の一つに過ぎない」
「では申し上げます。――お引き取りいただきたい」
彼女は円卓に、分厚い綴りを置いた。三十年分の記録だった。国境の小競り合いの死者数、年ごとの折れ線。経済封鎖で潰れた町の数と、離散した家族の追跡調査。緊張の中で予算を軍に喰われ続ける両国の民生の、二十七年分の予算書の抜粋。そして、真相の藪の中で責任を押し付け合い、失脚し、潰されていった官吏たちの名簿。名簿の何人かには、線が引かれていた。自死の印だと、後で知った。
「三十年、この大陸は『戦争ではない何か』に殺され続けています。宣誓なき憎悪には、終戦条件がない。定義がないものは、終わらせようがない。……ならば、いっそ」
銀縁の奥の目が、まっすぐに俺を見た。
「定義された戦争のほうが、定義されない憎悪より、人道的です。私の宣誓書の終戦条件は、九十年前の失敗を全て検証して設計しました。最短で終わり、最小の犠牲で終わり、そして終わったが最後、二度と蒸し返せない。――曖昧な平和より、定義された戦争を。それが私の結論です」
筋が、通っていた。腹立たしいほどに。この人は戦争が好きなのではない。「終わらないこと」を、誰よりも憎んでいるのだ。三十年分の綴りの頁は、どれも手擦れで柔らかくなっていた。何百回、読み返したのだろう。この綴りを、この人は多分、憎悪ではなく、弔いのように抱えている。
「……一つだけ、反論します。セレンさん。戦争に良い設計はあり得ても、良い戦争はあり得ない。あなたの終戦条件が完璧でも、そこに至る過程で死ぬ人間は、条文の外で死ぬ。死者数の欄は、あなたにも設計できない」
「では伺いますが、終わらない冷戦で死んでいく人々は、良い死に方ですか」
「――どちらも駄目だ、が答えです。だから第三案を書きに来ました」
「第三案。開戦でも、現状維持でもない案。……三十年、この大陸の全ての法術士が探して、見つからなかったものを?」
「三百年、誰も見つけなかった魔王の退職届を、書いた実績があります」
「実績援用ですか。詠唱様式のような口を利く」
「お詳しい」
「職務上、貴殿らの調査資料は全て読みました。……全て、です」
「では、伺いたい。あなたの第三案とやらは、三十年前の花嫁の船を、どう扱うのです」
核心だった。彼女は続けた。
「両国の憎悪の根は、あの一件です。そして真相は、三十年、藪の中。ヴァルムが沈めた証拠も、リズレアが沈めた証拠も、存在しない。……真相なき和解は、砂上の楼閣です。三十年前、五度、試みられて、五度、崩れました。六度目を積む時間は、もう、ない」
「なら、真相を掘ります」
「三十年、両国の全ての調査機関が掘って、出なかったものを」
「両国の調査機関は、『相手の罪の証拠』を掘ったんでしょう。俺たちは、『何があったか』を掘る。掘る場所が違えば、出るものも違う」
彼女の眼鏡の奥の目が、初めて、論理以外の色で揺れた。ほんの一瞬だった。すぐに元の、定義と条文の目に戻り、彼女は「……九十日で、ですか。ご健闘を」と言った。皮肉の形をしていたが、皮肉の音ではなかった。あれはたぶん、彼女の書式における「祈り」の項目だった。
論戦は一時間に及び、引き分けた。互いの論理に、その場で崩せる穴がなかった。彼女は書類をまとめ、一礼し、扉口で一度だけ振り返った。
「……最後に。あなたの入国書類、第三条の二行目。読点が、一つ余分です」
「わざとです。音読した時の、息継ぎの位置なので」
「…………なるほど」
彼女は三秒沈黙し、何も言わずに出ていった。扉が閉まってから、レーヴェがぼそりと言った。
「……なんか今、変な周波数が合ってなかった?」
「気のせいだ。仕事に戻るぞ」
「あとさ、リド。あたし、見ちゃったんだけど。あの人の目の下の隈、あんたの繁忙期と同じ色してた。それと、綴りを抱える時の腕の形。……あれ、大事なものを抱える形だよ。仕事の書類を抱える形じゃない」
剣聖の観察眼は、敵味方も、大陸も問わない。俺は「覚えとく」とだけ答えた。実際、覚えておくべき情報だった。論敵の論理は円卓で見た。論敵の傷は、まだ見ていない。
宿への帰り道、四人で作戦の背骨を固めた。ミラベルが指を折る。
「整理しよう。戦争を止める道は三つ。一つ、宣誓の儀そのものを潰す――駄目だね、儀式を潰しても憎悪が残る。セレンの言う『定義されない憎悪』が続くだけ」
「二つ、両国の関係改善」エルシーが続けた。「三十年で五回失敗しています。残り九十日では、六回目の失敗が精一杯でしょう」
「なら三つ目だ」と俺。「憎悪の根――三十年前の花嫁の船の真相を、掘り当てる。真相が『どちらも沈めていない』なら、憎悪は根から枯れる。真相が『どちらかが沈めた』なら……その時は、その時の書式を考える」
「どっちに転んでも修羅場だねえ」レーヴェが笑った。笑ってから、真顔になった。「でもさ。三十年、答えを知らされないまま憎み合わされてる人たちのことを思うと――どっちの答えでも、知る方がいいよ。あたしは、そう思う」
方針は決まった。二国の言い分を聞き、三十年前を掘る。時間は九十日。人手は四人と、精霊一匹。
――そして宿に戻った俺たちは、机の上の異変に気づいた。広げてあった依頼書の上に、半透明の、海月と子猫の中間のような何かが乗っていて。
はむ、はむ、と。
契約書のインクを、齧っていた。
次回「第5話 別紙一号」は、9月6日(日)18時30分更新です。




