第3話 書類が魔法の大陸
前回:「第2話 海獣と、海の上の9分51秒」
オルサ大陸は、上陸して三分で俺たちの常識を破壊した。
まず、港の市場。魚屋の親父と客が「まいど、ツケで頼むわ」「あいよ、月末までに払うと誓うかい」「誓うよ」――と言った瞬間、二人の間の空気が、ぽう、と淡く光った。光は客の胸元に吸い込まれて消えた。誰も驚いていない。日常らしい。
「い、今の何!?」
「誓いですよ、お客さん」魚屋が笑った。「精霊が聞いてたんでさ。月末に払わなきゃ、あの人、ひと月ばかり釣り運に嫌われまさあ」
「祟りとしては、軽くないですか」
「軽い誓いにゃ、軽い祟り。重い誓いにゃ、重い祟り。精霊さんは、律儀で公平なんでさ。だからこの大陸じゃ、誓いの重さってのは、そのまんま覚悟の重さでね。命懸けの誓いは、破りゃあ命に来る。……滅多にゃ誰も、そこまでの誓いはしませんがね」
命に来る誓い。開戦宣誓というのは、つまり国ぐるみで、そこまでの誓いをするということだ。市場の長閑な光を見ながら、俺は背中に冷たいものを感じていた。
通りの先では、子供が二人、小指を絡めて「ゆーびきった」とやっていた。指と指の間が、ぽう、と光った。指切りが、実際に効力を持つ大陸。約束を破った子はどうなるのかと聞いたら、魚屋は笑って「三日ばかり、おやつが不味くなるのさ」。……祟りの設計が、教育的ですらある。
港の市場でもう一つ目を引いたのは、客の顔ぶれだった。鉄の国の名の入った前掛けの商人と、潮の国の船章を付けた船乗りが、同じ屋台で隣り合って飯を食っている。国は開戦の瀬戸際でも、港の民は、混ざって暮らしていた。三十年の冷戦の下でも、市場は市場であり続けたのだ。だからこそ、と思う。宣誓が交わされたら、この混ざり合った暮らしが、真っ二つに裂かれる。
――この大陸では、声に出した誓いに精霊が宿り、破れば律儀に祟る。つまり、口約束が法的拘束力どころか物理的拘束力を持つ。契約と宣誓が、文字通りの魔法。事務屋にとっての天国であり、そして、悪用すれば地獄の素でもある。資料で読むのと、目の前で光るのとでは、腹に落ちる深さが違った。俺たちがこれから止めようとしている「開戦宣誓」も、あの小さな光の、途方もなく大きい親戚なのだ。
市場を三分歩いただけで、この大陸の商売の形が見えてきた。手付金がない。保証人がいない。抵当の看板もない。全部、誓いが代替しているのだ。エルシーが目を輝かせて言った。「リドさん。この大陸、貸し倒れ引当金という概念が、ほぼ要りません」。聖女の目の付け所が今日も金融である。だが同時に、俺の背筋には別の汗が伝っていた。誓いが金庫の代わりをする社会で、もし「誓わせ方」を悪用する奴がいたら――取り立ての形も、俺たちの常識の外にあるはずだった。
「入国審査です。書類を……ひっ」
審査官が、俺の提出した入国書類一式を見て、小さく悲鳴を上げた。
「な、なんですかこの書式は……項目の配列が、読む者の視線の動きと完全に一致して……押印位置の余白が黄金比……し、しかもご覧なさい、書類の周りに精霊が三匹も寄ってきている! 誓いの密度が高い書類には精霊が寄るのです、こんな、こんな書類は誓約庁の筆頭様の起草文書でしか……あ、あなた様はもしや、西大陸の大法術士様で!?」
「いえ、事務屋です」
「じむや……! なんと謙虚な……!」
「いや謙虚とかではなく、事実、事務の」
「その徹底した名乗りの様式美……! やはり只者ではない……!」
駄目だった。何を言っても評価が上がる仕組みに嵌まっていた。審査官は俺の書類を両手で恭しく捧げ持ち、拝んだ。事務屋、人生初の、拝まれ。隣でレーヴェが腹を抱えて震えていた。ちなみに彼女の入国書類は「剣、一振り(よく手入れされている)」の申告欄で審査官を和ませ、エルシーのそれは資産欄の精密さで審査官を怯えさせ、ミラベルのそれは特技欄の「詠唱(九分五十一秒)」で審査官を混乱させた。多彩な入国だった。
もう一つ、すぐに学んだ重要な掟がある。この大陸では、迂闊な「絶対」「必ず」が命取りだ。軽口の誓いも、精霊は律儀に拾う。
「ふっ、この大陸でこそ、我が詠唱は真価を! 次こそ絶対に完唱して――もがっ」
「「「(口を塞ぐ)」」」
ミラベルの「絶対」を三人がかりで物理的に阻止したのが、上陸初日の最大の危機だった。この女に誓わせたら、精霊が過労死する。以後、うちの内規に一条が加わった。『当地における「絶対」「必ず」「誓って」の使用は、事前に監督官の決裁を要する』。口頭の一言に決裁が要る内規も妙だが、この大陸では、口頭こそが本丸なのである。
午後、商人評議会。港を見下ろす石造りの議事堂、その円卓の議長席には、老練な女商人・ドナ議長。日焼けした顔に、値踏みの速そうな目。彼女は挨拶もそこそこに、大陸の地図を広げた。
「時間がないので、要点だけ。北の鉄の国ヴァルムと、南の潮の国リズレア。鉄と造船のヴァルム、漁と交易のリズレア。片方の鉄が船になり、片方の帆が鉄を運ぶ――三十年前まで兄弟同然だった二国が、今、開戦の瀬戸際にある。……この大陸の戦争の掟は、ご存じか」
「開戦宣誓、ですね。資料は読みました。両国王が宣誓書に調印して初めて戦争が『始まる』。そして――」
「そう。誓われた戦争は、書面の終戦条件が成就するまで、何があっても止まらない。精霊が止めさせない。……前の誓約戦争の終戦条件は『どちらかの王都陥落』だった。結果、九十年かかった。儂の祖母は戦の中で生まれて、戦の中で死んだ。祖母の口癖はな、『戦争を憎むな、終戦条件を憎め』だ。この大陸の人間は、みんなその口癖で育つ」
円卓が、しん、とした。終戦条件を憎め。書式の中身が九十年の命運を分けた大陸の、血の教訓だった。
「三十年前、両国は和平の証に婚姻を結ぶはずだった。ヴァルムの王子と、リズレアの王女。花嫁の船は、この海峡で沈んだ。以来、双方が『相手が沈めた』と信じて三十年。そして次の大潮の日――九十日後、両国王は開戦宣誓の儀に臨む。宣誓されたら、終わりだ。この街も、この海も」
ドナ議長は、俺たちを順に見た。
「頼みは一つ。宣誓される前に――戦争の理由そのものを、消してくれ」
「確認します。依頼主は商人評議会。つまり、この依頼の原資は」
「加盟商人の拠出金だ。北の商人も、南の商人も、等分に出しとる。……開戦すれば、どちらの商人も終わりだからな。この評議会はな、調停者殿。三十年間、両国の商人が『商売の話だけは続けよう』と誓い合って保ってきた、最後の中立地帯だ。ここが依頼主であることの意味を、汲んでもらえるとありがたい」
「汲みました。……中立の書式で、受けます」
俺は受注書を二部起こし、報酬の出所が両国商人の等分拠出であることを、あえて明記した。この一行が、後々、両国での俺たちの立場を守る盾になる。中立とは、宣言ではなく、金の流れの形で証明するものだ。
会議が終わりかけた時、扉が控えめに叩かれた。書記官が告げる。
「議長。誓約庁より、筆頭法術士様がお見えです。……その、開戦宣誓書の起草者様が、西大陸の調停者様方に、ご挨拶したいと」
開戦宣誓書の、起草者。つまり、俺たちが止めようとしている「戦争の書式」を、いままさに書いている人物である。円卓の空気が、一段、張り詰めた。
次回「第4話 法術士セレン」は、9月5日(土)18時30分更新です。




