第2話 海獣と、海の上の9分51秒
前回:「第1話 指名依頼と、船酔いの魔物」
航海二十九日目の朝、海峡の入口で、船は止まった。
「――前方、海獣! でっけえぞ!」
見張りの叫びに甲板へ出ると、いた。海面から突き出た背びれの列が、小さな島くらいある。灰青色の巨体、船を丸呑みにできそうな口。朝日を受けた飛沫が、巨体の周りに虹を作っていた。綺麗だと思う余裕は、三秒で消えた。船長が唸った。
「グラン・モルガだ。海峡の主……普段はもっと沖にいるはずなんだが。迂回するなら三日かかる」
「三日は困る。依頼書に『時間がありません』って書いてあったんだ」
「なら祈るこったな。あいつの機嫌に」
機嫌を確かめる時間は、なかった。だが備える時間は、あった。エルシーが即座に船内を仕切った。「負傷しそうな方から順に船倉へ! 積荷の固定、確認! 樽は転がる前に縛ってください、転がってからでは高くつきます!」。危機の中でも損害額を計算する聖女の号令は、恐怖より速く船員を動かした。人は「逃げろ」では混乱するが、「樽を縛れ」なら手が動くのである。
そして海獣は、こちらの都合など知らず、船を「縄張りの侵入者」と判断したらしかった。背びれの列が、ゆっくりと、こちらを向く。巨体が沈み、波が引き、来る――!
「総員、何かに掴まれ! レーヴェ、船を守れ! ミラベル――」
「詠唱だね! 短縮版、九分五十一秒! 行くよ!」
「エルシーは負傷者と、あとポポ! ポポは絶対に甲板に出すな、酔うから!」
「出テマス! モウ出テマス!」
出ていた。しかも、良い位置に。
海の上の九分五十一秒が、始まった。
これが、陸とはまるで違った。足場が揺れる。波が甲板を洗う。塩の飛沫が目に入る。声は風に千切られ、実況の声量は陸の倍が要る。おまけに、逃げ場がない。陸の戦いなら「散れ」が言えるが、船の上では、全員の命が同じ板の上にある。詠唱者は姿勢を保つだけで精一杯だ。最初の横波でミラベルがよろめいた瞬間、船倉から飛び出してきたポポが、甲板に爪を立てて踏ん張り、その背中を詠唱者に貸した。地面に潜る生き物は、踏ん張りが本職らしい。ポポの背にしがみついたミラベルの詠唱は、荒れる甲板の上で、以後、一度も途切れなかった。
レーヴェは、襲い来る巨大な尾を、斬らずに捌き続けた。斬れば海獣は暴れ、暴れれば船が沈む。マストと索具を足場に、剣の腹と、時に鞘ごとの受けで、山のような質量を、右へ、左へ、受け流す。「重っ……! でも、ゴードンより素直!」。感想を言いながら受け流すな。だが確かに、海獣の尾には殺気より「出ていけ」の意思の方が濃かった。こいつは怒っているだけで、殺しに来てはいない。なら、こっちも殺さずに済む道がある。
俺は船長の横に張り付き、操舵の指示を叫び、波の周期を読み、実況した。
「経過四分! 波が来るぞ、詠唱者を支えろ! ポポ、あと五分五十一秒だ、保つか!」
「土竜ノ意地デス! ……ウプ」
「酔うな! いや酔ってもいいから動くな!」
「経過六分! 船長、次の波で舳先を二点、風上へ! 尾が来る間合いをレーヴェに寄せる!」
「あんた、海は初めてじゃなかったのか!?」
「波は書類の山と同じです! 崩れる周期は、読める!」
「窓口ってのは何なんだ、あんたの大陸の!」
「世界の縮図です!」
七分。海獣の苛立ちが頂点に来て、巨体が船腹すれすれに壁のような波を立てた。船が傾き、誰かの悲鳴。だが傾ぎの底で、ポポの爪は甲板を離さず、詠唱の声も、途切れなかった。むしろ、揺れるほどに、声は太くなっていった。修羅場の数なら、うちの魔女は大陸でも負けていない。
「経過八分! ……ミラベル、確認だ! 撃つ先は海獣じゃない、海獣の『下』だ! いけるか!」
「誰に言ってる! 百七回、逃がし続けた女だよ!」
「九分五十……――今ッ!」
「『――黎明にはまだ遠く、されど終焉の名のもとに』――『終焉』ッ!」
閃光は、海獣に触れなかった。海獣の真下の海へ撃ち込まれた全力は、例によって千々に「逃がされ」、その全てが――巨大な、白い水柱に変わった。山のような水の柱が、島ほどもある海獣の巨体を、ゆっくりと持ち上げる。持ち上げて、運んで、海峡の外、沖合の深みへ――ざっぱーん、と、下ろした。
海獣は水面から顔を出し、何が起きたのか分からない様子で周囲を見回し、そこが自分の本来の縄張りだと気づくと、大人しく潜っていった。怪我ひとつ、なかった。船にも、海獣にも。
「進捗百! 三回目! しかも今回は――海獣を、お引越しさせた!」
「戦果の欄に『引越し』って書く魔導士、世界にお前だけだよ」
「引越しの立会人は土竜! 支えたのは君だ、ポポ!」
「光栄デス! ……ウプ」
英雄も、酔う時は酔う。
甲板は、歓声と、へたり込む船員と、遅れて酔いが来たポポの呻きで満ちた。船長は帽子を取り、しばらく黙って、それから言った。「……この航海の話、孫の代まで語るぞ。信じちゃもらえんだろうがな」。
ただ、その船長が一つ、腑に落ちない顔で呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
「しかし妙だ。海峡の主が、縄張りを内側に寄せるなんてな。あいつらは臆病だ。よっぽど沖が騒がしくなけりゃ、こんな浅くまで来ん」
「沖が騒がしい。……心当たりは」
「……近頃、北と南の軍船が、示威だ演習だと沖を走り回っとる。海のもんには、いい迷惑よ。魚も、主も、追われて逃げる」
開戦前から、戦争は始まっているのだ。人が死ぬ前に、まず海が騒ぎ、獣が住処を追われる。手帳の「要確認」の頁に、また一行増えた。
その夜の船内は宴になり、レーヴェは船員たちと腕相撲大会を開き(全勝の後、全員の腕の張りを診て湿布を配った。何の大会だったのか)、エルシーは宴の勘定を仕切り、ポポは英雄として堅パンを二個支給された。その夜の船内は宴になり、レーヴェは船員たちと腕相撲大会を開き(全勝の後、全員の腕の張りを診て湿布を配った。何の大会だったのか)、エルシーは宴の勘定を仕切り、ポポは英雄として堅パンを二個支給された。
――宴を抜けて船室の前を通りかかると、ミラベルがランタンの下で古びた書物を読んでいた。表紙の題は、掠れた古語。
「何読んでるんだ。宴の主賓だろ、半分は」
「『黎明』。……超級魔法の詠唱書だよ。『終焉』と対になる魔法。終わらせる魔法があるなら、始める魔法もある――って、理屈ではね。詠唱、十三分。私もまだ、一節も唱えたことがない」
「十三分。……また長いのを見つけてきたな。短縮したそばから」
「ふふ。でもね、こっちは短縮する気がないんだ」彼女は、頁を撫でた。「『終焉』は、早く終わらせたいものに撃つ。でも『黎明』は、始まりの魔法だろ。始まりってのはさ――ゆっくりでいいんだよ、多分」
詠唱馬鹿の言葉とは思えない、妙にまっとうな理屈だった。俺は「いつか撃つ時は、時間を計ってやる」とだけ言って、部屋に戻った。約束の在庫が、また一つ増えた。
翌朝、金鱗号は海峡に入った。両岸の断崖の間、三十年消えたことのない灯台の下を、船はゆっくりと進んだ。灯台の回廊に人影がひとつ、小さく見えた。影は、通り過ぎる船に向かって、旗を一振りした。「良い航海を」の、船乗りの合図だった。
自由都市ポルトネラの港が、朝日の中に開けた。
次回「第3話 書類が魔法の大陸」は、9月4日(金)18時30分更新です。




