第1話 指名依頼と、船酔いの魔物
ここから第二部・新大陸編です。第一部の顛末は冒頭の依頼書で分かる構成にしていますが、第一部からの通読をおすすめします。
その依頼書は、潮の匂いがした。羊皮紙ではなく、見慣れない厚手の海藻紙。西大陸の書式のどれとも違う配列。それでいて、読みやすい。遠い国の事務屋の顔が、紙の向こうに透けて見えるようだった。
『指名依頼書
依頼主:オルサ大陸・自由都市ポルトネラ商人評議会
仲介:メルヴィナ商会・大陸支店
依頼内容:隣接二国間紛争の、開戦前調停。
指名理由:貴パーティ《(仮)》は、(一)魔王軍四天王四名を一名も殺さず円満退職させ、(二)三百年戦争を死者ゼロの最終決戦で終結させ、(三)その講和条約を自ら起草した実績を有する。本件依頼に際し、評議会は全会一致で結論した。「誰も殺さずに戦争を終わらせた」者は、世界にただ一組しかいない、と。
報酬:日当・金貨三枚。渡航費全額支給。成功報酬、別途破格。
備考:時間がありません。』
――以上が、俺たちが大陸行きの快速帆船「金鱗号」に乗っている理由の全てである。ちなみに決め手は指名理由ではなく報酬欄だった。うちは日銭専門なので。
出航の日のアステル港は、ちょっとした騒ぎだった。ヴァルガが焼きたてを三百食分(航海用の堅焼きと、初日に食う用の柔らかいの)を積み込みに来て、ユーリスは「大陸の歴史書を三冊、船内学習用に」と手渡してきて(宿題を出す教師の顔だった)、カインは師匠に「留守中の素振り、サボりませんから」と誓い、ミレット先輩は俺に「向こうの窓口の書式、写して帰ってきなさいよ」と業務命令を出した。見送りとして、実に、うちらしい顔ぶれと台詞である。船が岸を離れる時、門番に預けられた犬のゴードンが一声だけ吠え、俺たちの三年間が手を振っていた。
船はメルヴィナ商会の持ち船で、船倉には商会の交易品がぎっしり詰まっている。航海は片道三十日。俺は船室を仮設事務所に改造し、大陸の法制度の資料を読み込む日々を送っていた。オルサ大陸の法体系は「誓約法」という独特のもので、資料を読むほどに、俺の事務屋としての本能が、ざわざわと騒いだ。
例えば、こんな条文がある。『誓いの証人は、人であることを要しない』。……つまり精霊が証人になる。『書面は、誓いの記録であって、誓いそのものではない』。……つまり原本は紙ではなく、空気中のどこかにある。『重誓の解除は、受誓者の死によっても妨げられない』。……つまり相手が死んでも誓いは残る。読めば読むほど、この大陸では「約束」が、石より硬い建材として世界に組み込まれているのが分かった。契約が、物理法則の側にある大陸。事務屋にとって楽しみなような、恐ろしいような。少なくとも一つ確かなのは、この大陸の戦争が「書式で始まる」なら、書式で止められる理屈もある、ということだった。俺は三十日かけて、その理屈を探すつもりだった。
仲間たちの船上生活は、それぞれだった。レーヴェは船員全員の身の上を三日で聞き終えて(コックの初恋から船長の腰痛の来歴まで)、五日目には航海士と拳を交わす仲になり、十日目には水夫の綱結びの腕を見て「あんた、いい手だね」と褒めて回っていた。エルシーは船医の真似事を始めた。治療費は例によって懺悔で、おかげで船内の風紀は著しく向上した。賭け事のイカサマが二件、酒の抜き飲みが五件、航海日誌の日付の誤魔化しが一件、自主的に申告された。船長が「うちの船がこんなに正直なのは就航以来初めてだ」と真顔で言った。ミラベルは毎朝マストの上で詠唱訓練をして海鳥を騒がせた。平和な航海だった。十五日目までは。
「船倉で、変な音がする」
夜、航海士が青い顔で報告に来た。がさ、ごそ、うぷ、という音。うぷ?
ランタン片手に降りた船倉の、パンの木箱の陰に、それはいた。体長一メートルの、土色の、毛玉。大きな前脚の爪、小さな目、長い鼻先。土竜系の魔物だ。そして毛玉は、見たこともないほど青ざめた顔で――魔物の顔色が分かるようになった自分も相当だと思う――船の揺れに合わせて、うぷ、と口を押さえていた。
「密航……しかも、船酔い……」
「捕まえろ!」と叫ぶ船員たちを、レーヴェが手で制した。彼女は毛玉の前にしゃがみ、背中をさすり、水を飲ませ、そして、いつものやつを始めた。
「――話してみな。ゆっくりでいい」
毛玉(ポポと名乗った)の身の上は、こうだった。故郷の山まで届いた「風のパン屋」の評判。魔物にも売ってくれる店。仲間の岩兎が実際に買いに行って、耳の形の焼き印まで入れてもらったという自慢話。だが店は遠く、山を下りた港で嗅いだのは、木箱三百個分の、あの香ばしい匂い。気づいたら潜り込んでいた。そして土竜は、地面のない場所で生きていけない生き物だった。乗って三日で匂いだけで満腹になり、七日で後悔し、十五日目の今日、ついに音を出した。
語り終えたポポは、耳をぺたんと伏せて、消え入りそうな声で付け加えた。「オ金ハ、持ッテキマシタ。掘ッタ宝石デ、払ウツモリデ……デモ、切符ノ買イ方ガ、分カラナクテ」。差し出された前脚の上には、確かに、原石が三粒。無賃乗車の意図はなかったのだ。窓口があれば防げた不幸である。世界には、まだまだ窓口が足りない。
「パンにつられて密航して、地に足がつかなくて酔ったのか……間抜けすぎて逆に泣ける」
「泣くのはあたしの担当! うっ、ぐす、パン一つのために海を、越えようと……っ」
「治せますよ、船酔い」エルシーが進み出た。「お代は――乗船の懺悔と、あと三十日分の労働で。ちょうどパン箱の運搬係が要りますし」
俺は乗客名簿に一行を追記し、運賃を現物労働で払う旨の簡易契約書を作り、船長の承認印をもらった。密航は、事後手続きで乗船に変わった。書類とは、そういうことができる道具である。ちなみに契約書の特記事項には「賃金の一部は現物(パン、一日一個)で支給」と書いた。ポポは契約書に前脚の爪判を捺しながら、感激のあまり、また、うぷ、となっていた。感激で酔うな。
働き始めたポポは、優秀だった。土竜の腕力は箱運びの天職で、暗い船倉では目より鼻が利く。三日目には船員たちが「ポポ、こっち頼む」と当たり前に呼ぶようになり、七日目には夜食の残りを巡る古参の猫との縄張り争いに敗北して、また、レーヴェに慰められていた。船というのは、働く者には優しい場所である。
――その夜。当直を代わった俺が甲板で夜風に当たっていると、隣にポポがやってきて、鼻先で水平線を指した。
闇の果てに、光が、ひとつ。
星ではない。灯台の灯りだ。だが妙だった。灯台の光は普通、回って、瞬く。その光は――瞬かない。ただ、まっすぐに、こちらを照らし続けている。
「ありゃあ、オルサの海峡の灯台でさ」通りかかった老船員が言った。「三十年、一晩も消えたことがねえって評判だ。海のもんはみんな言いますよ。あの灯りは、機械の光じゃねえ。誰かが、寝ずに守ってる光だってね」
「三十年。……交代の灯台守が、いないんですか」
「さあね。ただ、この海で三十年船に乗ってるが、あの灯りに救われた船乗りの数は、勲章にしたら王様の胸が足りねえ。……嵐の晩ほど、強く灯るんでさ、あの灯りは」
三十年。俺たちがこれから調停する冷戦と、同じ長さの灯りが、夜の果てで、静かに燃えていた。偶然だろうか。三十年前に始まった憎悪と、三十年前から消えない灯り。俺は手帳に、小さくメモを取った。『灯台。要確認』。この時はまだ、ただの職業病だった。
次回「第2話 海獣と、海の上の9分51秒」は、9月3日(木)18時30分更新です。




