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後日談・第6話 聖女と、二冊目の手帳

前回:「後日談・第5話 ルル座、魔王城公演」

「――列聖、ですか」


 教会からの使者は、恭しく肯いた。純白の式服に、大聖堂の紋。携えてきた羊皮紙には、教皇印まで捺されている。救世の功により、エルシーを正式に「聖女」に列する。教会史上最年少。存命中の列聖は百五十年ぶり。断る者など、いるはずのない栄誉だった。


「謹んで、辞退いたします」


 いた。ここに。


 使者は三度聞き直し、三度同じ答えを得て、蒼白になって帰っていった。後日、教会は方針を変え、切り札を送り込んできた。調査官として再派遣されてきた、ドロテアである。かつてエルシーの「回復の対価に懺悔を要求する行為」を審査しに来て、逆に自分の宿代の水増しを懺悔して帰った、あの審問官だ。彼女は開口一番、頭を抱えた。


「なぜだ。列聖されれば大聖堂に迎えられ、生活は保障され、発言力は教会の頂に届く。お前の説く『市場の回復』とやらも、上から制度にできるのだぞ」


「聖女は、祭壇に置かれます。祭壇の奇跡は、祭壇まで来られる人にしか届きません。……私は、市場に立ちたいので」


「市場に、何がある」


「祭壇まで歩けない人が、います」


 ドロテアは、言葉に詰まった。彼女は生真面目な人だ。生真面目だから、詰まったまま、その日はエルシーの回復所の帳場の隣に座り、一日、黙って客を見ていた。打ち身の人夫、腰の曲がった老婆、熱を出した魔族の赤子。銅貨数枚と、小さな懺悔。祭壇には、たしかに来られない客層だった。


 その夜、回復所の店じまいを手伝いながら、ドロテアはぽつりと聞いた。


「……前から不思議だった。お前の回復は、なぜ懺悔が条件なのだ。神学的な根拠を、私は文献で見つけられたことがない」


 エルシーは、帳場の抽斗から、古い木の聖印を出した。子供の手彫りの、不格好な。


「私、教会の孤児院の出なんです。寄付を集める大人たちを、ずっと見て育ちました。表の帳簿と、裏の帳簿。祭壇での美しい言葉と、袖の中の言葉。子供って、大人が思うより、ずっと見ています。……ある夜、礼拝堂で祈ったんです。『神様。嘘に効く奇跡は要りません。本音にだけ効く奇跡を、一つください』って」


「……それで、あの力か」


「ええ。ですから私の回復は、建前には一度も効いたことがありません。――我ながら、商売に向かない奇跡です。メモで補ってきましたけど」


「向かない、か」ドロテアは、帳場の日銭箱を見た。銅貨ばかりの、しかし毎日きちんと重くなる箱を。「……三年前のわたしは、お前の商売を『信仰の切り売り』と断じるつもりで来た。今は、こう報告するしかない。『当該回復所は、教会が三百年説いて果たせなかった水準で、隣人愛を実装している』と」


「あら。報告書の文が、お上手になりましたね」


「誰のせいだと思っている」


 列聖の代わりに、彼女はリドと一本の制度案を起草した。『巡回回復士制度』――回復屋を教会公認の資格とし、料金の上限を定め、村々を回る庶民医療の網を作る。回復魔法の使い手は教会の外にも点在するのに、資格も相場もないせいで、法外な料金や偽医者が横行していた。それを、資格試験と料金表と巡回路という三枚の書式で、網に変える。エルシーが実務を書き、俺が様式を整え、ドロテアが教会内の稟議を通した。教会は列聖を断られた腹いせ――ではなく大局的見地から、これを承認した。承認の決め手は、エルシーの一言だったという。「祭壇に来られない人のところへ、教会の方から歩いていく制度です。……布教として、これ以上のものがありますか?」


 教会内の稟議は、一度、枢機卿会議で止まった。「回復の奇跡を、資格と料金表で縛るとは何事か」という原理派の反対である。ドロテアは単身、本山に乗り込み、二枚の紙を机に並べたという。一枚は、無資格の偽回復屋に全財産を毟られた寡婦の陳情書。もう一枚は、エルシーの回復所の三年分の料金記録――一度も相場を超えたことのない、銅貨の列。「奇跡を縛るのではありません。奇跡の値段を吊り上げる者を、縛るのです。……ご反対の猊下は、こちらの陳情書への返答を、私に代筆させるおつもりですか」。稟議は、通った。審問官仕込みの詰めは、身内にこそよく刺さる。


 初代の監督官には、几帳面さを買われてドロテアが就任した。「経費は規定額を一枚も超えるな」という彼女の就任通達は、本人の過去(宿代水増し・懺悔済み)を知る者たちを大いに沸かせた。本人は「経験者の通達だ。説得力が違う」と胸を張った。開き直りも、ここまで来ると徳である。


 制度が動き出すと、早速、実績が出た。三つ目の村で、悪名高い偽回復屋が網にかかったのだ。銀の刺繍の派手な法衣で「大聖堂直伝の秘蹟」を騙り、治りもしない光を見せては金貨単位の布施を取る男。ドロテアが資格の提示を求め、男が偽造の認定証を出し、彼女がその印影の誤りを三秒で指摘し(元審問官である。印影は専門だ)、御用となった。ただし、この制度の面白いところはここからで、男には牢の代わりに「補講と実技試験」が課された。調べてみれば、光を見せる初歩の魔法だけは本物だったからだ。半年後、男は最下級の資格を取り、料金表通りの回復屋として、同じ村で(監督官の定期監査つきで)働いている。「詐欺師を一人減らすより、回復屋を一人増やす方が、村は得です」というのが、制度設計者の弁である。聖女の算盤は、今日も合理的に慈悲深い。


 制度の初巡回には、俺とエルシーも同行した。最初の村で、資格試験を受けに来たのは、村で三十年「拝み屋」をやってきた老婆だった。回復魔法は初歩の初歩、だが村人の信頼は絶大。試験官のドロテアは、規定通り実技で採点し、規定の点数に一点足りない結果に、長いこと黙った。それから、試験要項の隅の一行を指した。『地域の実情に応じ、監督官の裁量で補講を課すことができる』。「――補講、三日。私が直々にやる。合格させてから帰る」。規定に忠実な女が、規定の中の一番柔らかい一行を、ちゃんと見つけて使う。エルシーは隣で、それはそれは満足そうに笑っていた。制度は、書式に魂が入って、初めて動くのである。


 そして、手帳の話をしよう。三年分の懺悔が詰まった一冊目を、エルシーは箱に納めて封をし、回復所の床下に安置した。墓標のように、宝物のように。安置の日、彼女は小さな祈りを捧げた。「この帳面の中の弱さを、どうか、誰も恥じませんように。全部、生きていた印ですので」。


 下ろしたての二冊目、その最初の頁に、彼女は一行だけ書き入れた。


『ユーリス様の懺悔、残り百三十一年分。完了予定日、――』


 彼女は暦を繰り、指を折って計算し、几帳面な字で日付を書き込んだ。ずいぶん、先の日付を。


「……長いですね」と、覗き込んだ俺は言った。


「ええ」


 聖女(辞退)は、二冊目を胸に抱いて、それはそれは良い顔で笑った。


「長く、お付き合いする予定ですので」


 ちなみに教会は、列聖の代替案として「準聖女」「特別聖務員」「名誉大司教」等の役職を次々に打診してきたが、全部断られた末、最終的に彼女の回復所の軒先に小さな銘板を打つことだけを許された。曰く、『当所は、教会が信頼する場所です』。エルシーはこの一枚だけは受け取った。「肩書きは要りませんが、信頼は帳簿に載せられますので」。……載せるのか、それも。

次回「後日談・第7話 剣聖の弟子」は、8月29日(土)18時30分更新です。

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