後日談・第4話 風のパン屋、二号店
前回:「後日談・第3話 勇者の再就職先」
国境の門前市場に、二号店の開店旗が立った。
『風のパン屋・魔族領店 本日開店』
開店前夜、俺たちは仕込みの手伝いに呼ばれた。竈の火入れ、粉の検品、棚の設営。元・嵐翼隊の部下たちが総出で駆けつけていて、かつて空の精鋭だった男たちが、粉まみれで生地を捏ねている光景は、なかなかに壮観だった。聞けば、退役後にヴァルガの一号店で修業した者が五人、今度の二号店を任される店長格も、その一人だという。「隊長の背中を追ってたら、全員パン職人になってた」と店長格は笑った。良い部隊である。編成の目的は変わったが。
窯の火入れは、ヴァルガ自身がやった。新しい窯の前に立ち、彼は懐から古びた火打ち石を出した。聞けば、一号店の最初の火も、これで入れたという。もっと聞けば、四天王時代の野営の火も、これで入れていたという。「道具は、使い道が変わっても、同じ火を出す。……人間もな」。火が付くまで、彼は誰にも触らせなかった。職人とは、そういうものらしい。
ちなみにミラベルは新品の窯をしばらく「視て」、「この窯、魔力の通りがいい。熱が丸い」と評した。パンの世界にも魔力残量測定は有効らしい。親方連中が「熱が丸い」を専門用語としてメモしていた。広まるのか、それは。
看板の設置はゴードンが請け負い、結果、門より看板の方が目立つ事態になった。高さの調整を三度やり直させられた巨人は、しかし満足げだった(「宣伝効果、良好」との評価である。関所の公式見解かどうかは、聞きそびれた)。開店当日の行列整理も、気づけば巨人が買って出ていた。三百年、人を並ばせて(正確には通さずに)きた実績は伊達ではなく、二百人の行列は、石の掌の指し示すままに、完璧な三列を成した。世界一、割り込みの起きない行列である。
開店の朝には、一号店から祝いの客が来た。常連筆頭、マーサさんである。恰幅のいい人間のご婦人は、乗り合い馬車を三本乗り継いで国境まで来て、開口一番、店構えを検分した。「窯よし。棚よし。……看板が大きすぎるね」。ゴードンが門の向こうで、微かに動揺した気配があった。彼女は店長格の焼いた試作を一口食べ、「六十点。隊長の八割」と斬り、二口目で「いや、七十点。窯が新しいだけだ。三月で追いつくよ」と直し、若い店長格を涙目にさせてから、どっさりと開店祝いの塩を置いていった。一号店を任された理由が、よく分かる貫禄だった。
その直後、事件は起きた。焼きたて第一陣の初物を巡って、行列の人間商人と魔族商人が、掴み合いを始めたのだ。
「わしが先に並んどった!」
「人間は自分の街で買え!」
「なんだと、パンに国境があるか!」
「あるわけないだろう、だから並べと言っている!」
「並んどるのはわしが先だと言うとる!」
周囲の行列は割って入るでもなく、むしろ手慣れた様子で二人の外側に列の形を保っていた。聞けば、初物を巡るこの手の小競り合いは、一号店の開店時にもあったそうで、行列の古参たちには「開店の儀式」くらいの認識らしい。とはいえ、放ってはおけない。俺が仲裁の口上を組み立てているうちに――解決は、もっと簡単な形で来た。
喧嘩の理屈が途中から噛み合っていないのは、両者とも寝不足で夜明け前から並んでいたせいである。店の奥から、店主がのっそりと出てきた。二メートル超の元四天王は、揉める二人を左右の手でひょいと持ち上げ、行列の元の位置に、そっと戻した。
「――並んだ順だ」
彼は、店先の品書きを、親指で示した。
「うちの品書きに、値段と種類は書いてある。種族の項目は、書いてない。今後も書かん。……次、焼き上がるぞ。喧嘩する暇に、湯気を見てろ」
行列が、静かになった。窯から上がる湯気は、確かに、喧嘩よりずっと見応えがあった。焼き上がりの鐘が鳴ると、さっきまで掴み合っていた二人は、隣同士で同じパンを買い、どちらからともなく割って、食い比べの論評を始めていた。パンは、外交である。
昼には、金鱗の紋の馬車が乗り付けた。メルヴィナ商会、粉の納入契約の締結である。元同僚の商談は、見ものだった。
「小麦の相場より二分高いわね、この見積もり」
「国境倉庫の保管料込みだ。うちのパンは、粉が古いと膨らまん」
「保管料は商会持ちにするわ。その代わり、朝一番の焼きたてを、うちの行商網で独占的に――」
「並んだ順だ」
「……ふふ。あなた、四天王の頃より、手強くなってない?」
「守るものが、砦から窯に変わっただけだ」
結局、契約は「保管料折半、独占なし、ただし商会の行商人は開店前の仕込みパンを原価で購入可」で落着した。双方が三歩ずつ譲った、いい契約だった。俺は頼まれて契約書を清書しながら、この光景を三年前の自分に見せたら卒倒するだろうな、と思った。四天王筆頭格と四天王が、パンの粉で交渉している。平和とは、つまりこういうことである。
昼過ぎ、開店祝いに駆けつけた俺たちを見て、ヴァルガは相好を崩した。ミラベルが「開店祝いに祝砲の詠唱を」と言い出し、全員で羽交い締めにするいつもの伝統芸を済ませたあと(近頃は羽交い締めの分担も様式化している。腕はレーヴェ、腰はユーリス欠席のため俺、口はエルシー)、俺は聞いた。
「一号店はどうするんだ。街とここ、離れてるだろ」
「一号店は、常連のマーサさんに任せた。俺より接客が上手い。値切りの断り方が、俺より三割柔らかい。……俺はな、これから毎日、二つの店の間を、飛ぶ」
彼は、夕焼けの空を見上げた。左右対称に戻った、大きな翼を広げて。三年前、うちの聖女の治療で取り戻した、あの翼である。
「渡りの民はな、リド。巣を二つ持って、初めて渡り鳥に戻れるんだ。……三百年ぶりの、俺の渡りだ。片道の荷は焼きたてのパン、帰りの荷は明日の粉。悪くない渡りだろう」
「片道、何時間だ」
「二時間を切る。風が良ければ、もっとだ。――昔は軍列の先頭で、この翼の速さを自慢してた。今は、パンが冷める前に届くことを自慢してる。どっちが上等な自慢か、今なら分かる」
閉店後、初日の勘定にはエルシーが立ち会った(自主的に、である。開店祝いの名目で帳場に吸い寄せられていった。習性である)。売上は上々、売れ残りは、ゼロ。正確には、閉店間際に残った十二個を、ヴァルガが店の前の子供たちに配った。「売れ残りじゃない。明日の客への、先行投資だ」と店主は言い張ったが、帳簿には正直に「進呈・十二個」と書かせた。エルシーが満足げに頷いていた。帳簿と善意は、両立してこそ美しい。
俺たちも、焼きたてを一つずつ買った(勘定はきちんと払った。身内価格の申し出は、初日の帳簿を綺麗にするため辞退した)。国境の門を眺めながら、四人で齧った。三年前、最初の依頼で齧ったのと、同じ味がした。あの時は敵の四天王の焼いたパンで、今は、友人の焼いたパンだ。パンの味は変わらない。変わったのは、世界の方である。
夕暮れの空を、パンの籠を提げた黒い翼が、国境線の上をまっすぐに越えていった。三百年間、あの線の上を飛ぶものは矢と火だけだった、と古老たちは言う。門前の子供たちは、夕方のその影を「パンどき」と呼び、影が見えたら家に帰る合図にしているそうだ。時報が、鐘から翼になった。関所の日誌には、その日からこう記録されるようになった。『十七時、パン、通過。良イ匂イ、デアル』。
今は、パンが飛んでいる。
次回「後日談・第5話 ルル座、魔王城公演」は、8月27日(木)18時30分更新です。




