第36話 詠唱完了
前回:「第35話 11分38秒の攻防」
最後の三十秒を、世界は、息を止めて見ていたと思う。
冠は聴取義務の鎖の中で、最後の抵抗として、ユーリスの身体そのものを盾の位置へ――詠唱の射線上へ、引きずり出した。宿主ごと撃てば、宿主は死に、冠は次へ跳ぶ。撃たねば、詠唱は今度こそ暴発し、全員が消える。三百年、勇者たちを縛り続けた、二択の地獄。
「ミラベル! 構うな、そのまま行け!」
俺は叫んだ。工程表の、最後の一行を信じて。そこにはこう書いてある。『最終三十秒・詠唱者の判断を最優先とする。全員、彼女を信じること(決裁済・リド)』。
彼女は、目を閉じていた。百七回の記録が、その瞼の裏にあったはずだ。ギルドの三パーセント。丘の四十二。虹の五十一。山の八十七。百七回、臨界の魔力を抱えて、百七回、人のいない方へ、いない方へ、力を逃し続けた手癖。世界で一番危険な魔力の、世界で一番優しい、逃し方。
――今夜、それを、逆さにする。
「『――終焉』」
詠唱、完了。十一分三十八秒、ちょうど。
光は、爆発では、なかった。
玉座の間を満たした純白の奔流は、放たれた瞬間に千々に散り、壁を避け、床を避け、レーヴェを避け、エルシーを避け、俺を避け、ユーリスの身体の輪郭を、髪の一本まで正確になぞって避けて――全世界を消し飛ばせる魔力の、その全てが逃された果ての、たった一筋の光の針だけが、残った。
針は、冠を、貫いた。
三百年分の魔力貯蔵が、内側から、音もなく蒸発していく。黒い冠は白く、白は透明に、そして――ぴし、と乾いた音を立てて、砕けた。
『……ミゴト』
砕け散る間際、金属質の声が、最後にそれだけを残した気がした。契約書を書いた奴の、様式への、敬意だったのかもしれない。
第九条。乙の魔力が完全に枯渇したる時、本契約は終了し――宿主は、解放される。
ユーリスが、膝から崩れた。駆け寄ったエルシーの腕の中で、三百二年ぶりに自由になった勇者は、最初の言葉を、絞り出した。
「……ざ、んげを。懺悔を、させてくれ。三百年分、ある」
「――ええ。ええ! いくらでも! 全部、伺います!」
封じられていた泉が、決壊した。ユーリスは泣きながら懺悔し、懺悔しながら泣き、エルシーの回復の光が、三百年分の傷を、外側から順に癒やしていった。祈祷書だけ持ってきたはずのエルシーが、途中から袖で目元を拭っていたのを、俺は見なかったことにした。
扉が開いたのは、その時だった。退避していたはずのネビュラが、書類の束を胸に、まっすぐ玉座へ歩いてきた。徹夜の束の一番上から、一枚を抜き、震えない手で、差し出す。
「――ご署名を。『魔王位消滅届』にございます」
ユーリスは、涙も拭かずに、それを受け取った。三百二年ぶりに自分の意思で持つペンを、一度落とし、拾い、署名した。ネビュラは書面を検め、受理印を、静かに捺した。
「受理いたしました。……三百二年間の、ご勤続」
眼鏡の奥の目が、初めて、揺れた。
「――お疲れさまで、ございました」
続きは受理の日に、と言った男は、約束通り、最後まで言い切った。三百年の事務が、一つ、完結した音がした。
そして、レーヴェは。
「終わった……よね? 全部、終わったよね? もう、泣いていいよね!?」
「ああ。まとめて、どうぞ」
剣聖の号泣が、玉座の間に響き渡った。三百年の物語の幕切れとしては、史上いちばん、締まらない泣き声だった。うちらしくて、よかったと思う。ミラベルは魔力切れで倒れる寸前、俺の袖を掴んで言った。「……見たか」。見た。百点満点の、百だった。彼女はにやりと笑って、そのまま三日、眠った。
――後始末の話を、少しだけ。
五日後、国境に到達した王国軍五万は、開かれた門と、ゴードンの敬礼と、既に調印待ちになっていた休戦協定の草案(起草・リド)に出迎えられた。駆けつけた国王グレアム三世は、玉座の間の惨状と、元・魔王と、俺たちの顔を順に見て、深々と、息を吐いた。
「……報告書の通りの結末だと、確認できた」
契約は履行された。債務、金貨千二百四十枚、全額帳消し。成功報酬も満額――のはずだったのだが、後日、魔王城(元)の総務部から、玉座の間および城内各所の損害について、実に美しい様式の請求書が届いた(ネビュラの事務は、最後まで速かった。あの徹夜の書類一式に、ちゃっかり混ざっていたに違いない)。報酬と相殺した結果、俺たちの手元には、ほぼ何も残らなかった。世界を救っても、原状回復義務は、残るのである。
ユーリスは魔王の座を退き――というより役職ごと消滅させ、魔族領の暫定代表として、三百年ぶりの復興と講和に忙殺されている。ヴァルガのパンが城下で売られ、メルヴィナ商会が物流を握り、ルル座の巡業が灰色の平原に初めての劇場を建て、ゴードンは国境で「両方の民」を守る門番を続けている。芋の農夫の村には支援が入り、約束の芋は魔王城(元)のでかい鍋で蒸かして、全員で食った。うまかった。カインは王都で中級に上がったと号外の隅に載っていた。装飾のない鉄の剣のまま、である。アリシア王女は、あれ以来ルル座の熱心な後援者になったらしい。三週間、読み聞かせで世話になった詩集の返礼だという。世界は、俺たちの知らないところで、勝手に、良い方に転がり始めていた。
俺は宰相への誘いを、三たび断った。定時で帰れないからである。
――で、現在。
俺たちは、いつものギルドの依頼板(再建済み。うちの弁償金で建った、と言われている)の前にいた。ミレット先輩は俺の顔を見るなり「世界を救った顔じゃないわね、相変わらず」と笑い、バッソギルド長は何も言わずに、受付の隅に俺の古い机を戻しておいてくれた。座らないが、ありがたい。
「世界を救った記念に、改名しよう!」とミラベルが言い出したのが発端だった。「《終焉の黙示録》!」「《なかよし》!」「《聖なる集金》!」――三年前と、一言一句同じ議論が、一歩も動かないまま三十分続いた。
俺は、書きかけた名称変更届を、そっと、鞄に戻した。
「……もう、(仮)でいいだろ。うちは」
「「「まあ、(仮)だしね」」」
世界で一番有名な仮称になった名前を背負って、俺は依頼板に向き直る。本日の新着依頼が、一枚。
『魔王城(元)の再建、手伝ってくれ。日当は弾む。まかない付き。――ユーリス』
「日当と、まかない……!」
「受けよう。即答で」
うちは、日銭専門なので。
受注の署名をしながら、ふと思う。三年前、瓦礫の中で書類を抱えていた俺に、誰かが教えてくれたらよかったのだ。お前の平穏な受付人生は今日で終わるが、代わりに、四天王が全員知り合いで、元魔王から指名依頼が来る人生が始まるぞ、と。……いや、教えられても、信じなかったな。書式の整っていない未来だった。
――ちなみに、その夜。ミラベルの手帳の最後の頁には、新しい一行が増えていたという。
『本日の進捗、100。 次の目標――詠唱時間の、短縮』
この女、まだやる気らしい。監督官の仕事は、当分、終わりそうにない。
依頼書の束をとんとんと揃え、角を親指でなぞって、一枚のはみ出しもないことを確かめる。五年と三年、一日も欠かしたことのない、俺の儀式。
俺の朝は、明日も、書類の角を揃えることから始まる。
(完)
第一部・本編、完結です。明日からの後日談十話ののち、9月2日より第二部・新大陸編が始まります。




