第35話 11分38秒の攻防
前回:「第34話 決戦前夜」
玉座の間。ユーリスは玉座の前に立ち、俺たちは工程表の配置についた。ネビュラと城の残存職員は全員退避済み。城の外では、ゴードンが門を「外から」封鎖している(決戦前夜のうちに、国境から三日の道のりを一晩で歩いてきた。「門ノ封鎖ハ、我ノ専門」とのことだった。頼もしいにも程がある)。
開始前の玉座の間は、静かだった。ミラベルが杖で床に円を描く音だけがした。レーヴェは剣の柄を、ゆっくり三度、握り直した。エルシーは祈祷書の栞の位置を確かめた。俺は懐中時計と、六百四十二頁と、工程表の角を揃えた。全員の準備の音が止んで、最後に、ユーリスが玉座の前に立った。
「一つ、言っておきたい」彼は、俺たち一人一人を見た。「この十一分の間に、私の身体が誰かを傷つけたら、それは」
「工程表に織り込み済みです。責任の所在欄は『冠』。あんたの欄は、最初から空欄です」
「……そうか」元勇者は、少しだけ笑った。「いい書式だ」
「では――始めてくれ」
ユーリスが目を閉じた。俺は懐中時計の竜頭を、押した。
「〇分〇秒。――ミラベル!」
「『原初の闇より出でて灯りし一つ火――』」
詠唱の第一節が響いた、その刹那。
玉座の間の空気が、変質した。ユーリスの頭上の冠が、ぶわり、と黒い焔のような魔力を噴き上げ――勇者の身体が、糸の切れた人形のように一度傾いで、別のものとして、起き上がった。
『――排除スル』
声が、二重になっていた。ユーリスの声の上に、金属を擦り合わせたような「何か」の声が被さっている。奴の輪郭から、黒い影が幾重にも滲み出した。影は形を成す。剣を持つ影、杖を持つ影、爪を持つ影――歴代の魔王たち、冠が喰らってきた最強たちの、残像の軍勢。
「第一工程! レーヴェ!」
「――応ッ!!」
剣聖が、影の軍勢のど真ん中へ、まっすぐに斬り込んだ。
それからの四分間を、俺は生涯忘れない。レーヴェは斬った。躱した。受けた。剣の影と斬り結びながら爪の影を蹴り飛ばし、杖の影の魔撃を、斬った石畳を蹴り上げて防いだ。歴代最強の残像たちを相手に、一歩も、詠唱者への道を譲らなかった。息が上がっても、笑ってもいなかった。ゴードン戦の、あの晴れやかな笑顔はない。今日のは、そういう戦いではないからだ。
二分過ぎ、影の一体が、彼女の死角から詠唱者へ抜けかけた。俺が叫ぶより早く、レーヴェは見もせずに剣を逆手に投げ、影を床へ縫い止め、素手のまま次の影の拳を捌いて、投げた剣を回収するまでの間、拾い上げた燭台で三合、打ち合った。剣聖は、得物を選ばない。あとで燭台にも謝っていたが、選ばない。
彼女は泣かなかった。宣言通りに。ただ一度だけ、ユーリス本体の剣を鍔で受け止めた時、囁くのが聞こえた。
「――あんたの剣、三百年経っても、錆びてないね。毎晩、心の中で手入れしてたんだろ。……もうちょっとだけ、待ってな」
「四分経過! 第二工程! エルシー!」
「はい!」
祈祷書を胸に、聖女が前へ出た。彼女は影の軍勢ではなく、その中心の――冠に呑まれた男の、奥に向かって、呼びかけた。
「ユーリス様! 聞こえていますね! 三百年、栓をされてきた泉の持ち主! ――懺悔の、お時間です!」
『無駄ダ。宿主ノ意思表示ハ、第七条ニヨリ――』
「意思表示は、封じられているのでしょうね! ですから、こちらから伺います! 答えは、涙で結構です! ――三百年前、仲間を手にかけたこと、あなたのせいだと思っていますね!?」
影の軍勢の動きが、一拍、乱れた。ユーリスの目から、ひとすじ、光るものが落ちた。
「違います! あなたのせいではない! 次! 避難布告を出すたび、こんなものは償いにならないと思っていましたね!?」
また、一滴。
「なりますとも! 布告一枚で、救われた村が三つあります! 私たちが見てきました! 次! 求人票を書いた夜、誰も来てくれないと思って泣きましたね!?」
また、乱れる。影の輪郭が、揺れる。
「来ました! 四人も! 条件にぴったりの応募者が! ――最後です! 三百年間、自分だけは救われてはいけないと、思い続けていましたね!?」
滂沱、だった。冠は宿主の言葉を封じられても、涙腺までは、契約書に書き忘れていた。一問、一滴。エルシーの誘導懺悔が、三百年の栓を、内側から軋ませていく。冠の噴き上げる黒い焔が、目に見えて、揺らぎ始めた。
「八分経過ッ!」
『――是以上ハ、看過デキヌ』
冠が、判断した。影の軍勢が一斉に霧散し、その全魔力が、ユーリスの右手に集束する。玉座の間ごと、詠唱者ごと、城ごと消し飛ばす一撃の予兆。契約違反すれすれの、宿主の身体を破壊しかねない、最終手段。
――ここからが、俺の工程だ。
俺は六百四十二頁の契約書を掲げ、玉座の間の中央で、受付五年で鍛えた腹式呼吸の、最大音量で読み上げた。
「『統治委任契約書! 第一条、本契約は甲ヴェイルと乙・冠の間に締結され――』」
『ッ――!?』
集束しかけた魔力が、びたり、と止まった。第二条細則三。契約条項の朗読の間、乙は聴取の義務を負う。三百年前、冠自身が書いた、律儀で、傲慢で、致命的な一文。
「『第二条! 乙は甲の統治権を代行し――』読んでる間は動けないんだよなあ、お前! 自分で書いたんだからな、これ! 『第三条!』」
『オノレ……事務屋アアアァァ……ッ』
「恨むなら三百年前の自分の様式を恨め! 『第四条!』 あと言っておくが、第十九条、『責務』の字が『積務』になってるぞ! 三百年、誤字のまま威張ってたのか、お前は!」
『ソレハ誤字デハナク、古語ノ――』
「言い訳を聴取する義務は、俺にはない! 『第五条!』」
読みながら、俺は移動を続けた。冠の「視線」が朗読者に集中するよう、玉座の間を大きく回り込みながら。附則に入る。様式集に入る。『本様式は写しを二部作成し――』備考の一行までもが、いま、世界で一番重要な文章だった。
「『附則第十二項! 乙は年に一度、契約内容の見直しを甲に提案できる!』……おい、提案したことあるのか、三百年で一度でも!」
『……ナイ』
「サボりか! 自分の書いた附則くらい運用しろ!」
冠と朗読で口喧嘩をする日が来るとは、受付時代の俺は思ってもみなかった。だが、これでいい。奴の演算が俺への憎悪に割かれるほど、エルシーの声が、深く通る。
九分。十分。俺は読んだ。喉が裂けそうになりながら、附則を、細則を、様式集の注意書きまで読んだ。冠は軋み、憎悪を滾らせ、それでも動けない。エルシーの問いかけが続き、レーヴェが崩れかけた天井の梁を斬り払って詠唱者を守り、そして――
「『――今、終焉の名のもとに――』」
詠唱が、最終節に、入った。
百七回、届かなかった場所。八十七の、向こう側。ミラベルの足元の魔法陣は、もはや玉座の間全体を覆い、彼女の真紅のローブは、臨界の魔力で燐光を纏っていた。
「十一分経過! 三十秒前! ――ミラベル、進捗を言えェッ!!」
真紅の魔女が、三年分の、不敵な笑みで、吼えた。
「――九十八パーセント!!」
九十八。百七回の記録の、どの数字よりも、遥か上。残り、あと二パーセントの、最後の三十秒だった。
次回「第36話 詠唱完了」は、8月22日(土)18時30分更新です。




