第34話 決戦前夜
前回:「第33話 冠の契約書」
決行は、明朝と決まった。王国軍の国境到達まで、あと六日。失敗した場合の再挑戦、その準備と回復の日数を逆算すると、余裕を見ても、明日しかなかった。納期から逆算する癖が、こんな日まで役に立つとは思わなかった。
その夜、俺は一枚の紙を、全員に配った。事務屋の作戦書――十一分三十八秒を、分単位で割り振った、工程表である。
「工程を言う。〇分〇秒、詠唱開始と同時に、冠は必ず宿主の身体を完全掌握して排除に来る。ユーリスさんには悪いが、あんたの身体が、今回の敵だ」
「構わない。……存分に」
「〇分から四分、第一工程。レーヴェが本体を受け持つ。倒すな、殺すな、ただし一歩も詠唱者に近づけるな。四分から八分、第二工程。エルシー、あんたの仕事はユーリスさんの『中身』だ。冠の支配の隙間に呼びかけて、懺悔を引き出せ。第七条の栓を、内側から緩める。八分以降、最終工程。冠が契約違反すれすれの荒業に出てくるはずだ。そこは――俺が、朗読で止める。第二条細則三。附則も細則も様式集も、全部読む」
「全部で、何頁あるんですか」
「六百四十二頁。安心しろ、速読は受付時代からの特技だ」
「読み上げなら速読ではないのでは」
「音読の速さも受付仕込みだ。閉店間際の規約説明を舐めるな」
夕刻、玉座の間で、通し稽古をやった。魔法なし、本気の斬撃なしの、位置取りと合図だけの空稽古である。ユーリスは「稽古で敵役をやる魔王も、史上初だろうな」と言いながら、律儀に影の軍勢の動きを再現してくれた(本人いわく「三百年、頭の中で全員と戦ってきた。動きは全部覚えている」。重い)。稽古は二度、通した。一度目、俺の立ち位置が崩落予測範囲に入っていることをミラベルが指摘し、二度目、エルシーの呼びかけとレーヴェの斬撃の音が重なる時間帯が見つかって、工程表を十五秒単位で修正した。本番前に直せる粗は、全部、紙の上で直しておく。それが工程表というものだ。
「……こんなに準備される討伐は、初めてだろうな」
「討伐じゃありません。解約手続きです」
工程表を配り終えて、解散した後も、誰も、すぐには眠らなかった。
中庭で、レーヴェが剣を研いでいた。カインの砥石が、月明かりの下で静かな音を立てていた。俺が通りかかると、彼女は手を止めずに言った。
「あたしね、明日は泣かないよ」
「珍しいな。カウンセリングが本業だろ」
「本業は剣聖。……あの人の三百年をさ、聞いたら、あたし、多分、立てなくなるくらい泣く。だから明日は、聞かない。泣かない。――あの人を、これ以上泣かせないために剣を振るのが、明日のあたしの仕事だから。泣くのは、全部終わった後で、まとめてやる」
「……ああ。まとめて頼む」
「うん。……ね、リド。明日の相手、歴代最強の勇者たちなんだよね。あたし、勝てるかな」
「勝たなくていい。工程表を読め。あんたの仕事は『四分間、通さない』だ。勝敗の欄は、最初からない」
「……そっか。通せんぼなら、得意だ」
彼女は研ぎ上がった剣を、月に翳して検分し、満足そうに頷いてから、思い出したように付け加えた。
「あ。それと、明日が終わったら、橋の下の子犬、迎えに行くから。王都の。名前はもう決めてあるの」
「……ああ、あの幻術で泣いてたやつか。なんて名前だ」
「ゴードン」
「石の巨人と被ってるが」
「強くて優しい名前でしょ」
反論できなかった。犬のゴードンと門番のゴードンが並ぶ日が、今から楽しみである。
礼拝堂では、エルシーが、あの手帳を開いていた。脱税の農夫から始まって、傭兵の初恋、大工の持ち出し、審問官の宿代、竜の二十年、ルルの名前、ゴードンの三百年。三年分の、人の弱さと、可笑しさと、愛おしさの記録。
彼女は最後の頁まで捲り、手帳を閉じて、祭壇に置いた。代わりに、古びた祈祷書を手に取った。
「明日は、記録しません。……明日の懺悔は、罪を数えるためのものではなく、人を、自由にするためのものですので。――神は見ています。私も見ています。明日は、それだけで十分です」
執務室には、明かりが二つ。ユーリスと、ネビュラがいた。覗くつもりはなかったが、扉が開いていた。総務官は、書類の束を几帳面に揃えていた。表紙に曰く、『魔王退位関係書類一式(案)』。役職の消滅届、軍の解散命令書、講和交渉の委任状、恩給の継続支払計画。……全部、明日、成功した場合の書類だった。
「気が早くないか、それは」
「総務ですので」ネビュラは眼鏡を直した。「三百年、この書類を作る日を、一族で待ちました。前日の徹夜くらい、させていただきます」
ユーリスは、その様子を、少し離れた椅子から、ずっと見ていた。何も言わずに。言えないのだ、第七条で。ただ、その目が、書類の題字を何度も何度もなぞっているのを、俺は見た。
俺自身の夜は、契約書との最終確認に消えた。六百四十二頁、付箋の位置を検め、読む順序を組み、喉のために白湯と蜂蜜を用意した(ヴァルガのパンに付いてきた蜂蜜が、こんなところで戦力になる)。受付時代、閉店五分前に来た客へ融資規約の全文説明をやり切ったことが三度ある。あの時の俺に教えてやりたい。その特技は、いつか世界を救う工程に載る。
そして、城壁の上に、ミラベルはいた。手帳を膝に、灰色の平原を見下ろして、膝を抱えていた。俺は隣に腰を下ろした。
「……ねえ、リド。もし明日、私がまた失敗したら」
「しない、とは言わない。百七回失敗した奴に、百八回目は絶対成功するなんて言うのは、詐欺師の台詞だ」
「慰める気ある?」
「ある。だから、事務屋として言う。――お前の詠唱には、致命的な欠陥が一つと、誰も気づいてない長所が一つある。欠陥は知っての通り、長すぎることだ。で、長所はな」
俺は、彼女の手帳を指した。
「百七回の暴発を、お前は一回も、人に当ててない」
ミラベルが、顔を上げた。
「ギルドの時も、丘の時も、シャンデリアの時も、山の時も。建物は壊した。地形も変えた。でも、人はいつも無傷だった。百七回、臨界を超えた魔力を抱えて、お前は無意識に、毎回、人のいない方へいない方へ、力を逃してた。――それはな、ミラベル。制御って言うんだよ。お前は百七回、失敗したんじゃない。百七回、逃し方の練習をしてたんだ。世界で一番危険な魔力の、世界で一番優しい逃し方を」
「……っ」
「明日は、それを逆さにするだけだ。全部を逃して、一点だけ、残せ。冠一つ分だけ。……できるさ。三年見てきた俺が言うんだ、査定は正確だぞ」
彼女は、しばらく黙って、それから、手帳の最後の頁を開いて、ペンを走らせた。
『いつか、100』の隣に、日付が、書き込まれた。明日の、日付が。
「――時間を、頼んだよ。監督官」
「任された。事務は、納期を守るんだよ」
夜半、寝る前に、俺は厨房を借りて、明日の分も含めて四人分の白湯を沸かした。灯りに釣られて一人、また一人と集まってきて、結局、全員で飲んだ。誰も明日の話はしなかった。レーヴェが「この城の厨房、鍋がでかい」と言い、エルシーが「五万人分の炊事の名残です」と返し、ミラベルが「明日が終わったら、この鍋で芋を蒸かそう」と言った。荷袋の芋は、四つ。ちょうど、うちの人数だった。約束がまた一つ増えた。明日を越える理由は、多いほどいい。
次回「第35話 11分38秒の攻防」は、8月21日(金)18時30分更新です。




