第33話 冠の契約書
前回:「第32話 魔王の正体」
「方法を探す。まず、敵を知ることからだ」
俺たちはネビュラの案内で、城の最深部の書庫に潜った。地下へ、地下へ。階段の踊り場ごとに魔導灯が間遠になり、最後は手燭の明かりだけになった。歴代魔王の記録、三百年の戦史、焼却を免れた古文書の山。そして――俺の探し物は、その最下層の、鎖の巻かれた石棚にあった。
「鍵は、こちらに」ネビュラが、首から下げた古い鍵を外した。「一族に伝わる引き継ぎ品です。『いつか、読める者が来る』と。……三百年、誰も開けませんでした」
黒い革の、一冊の契約書。表題『統治委任契約』。甲、ヴェイル。乙、冠(自律魔導具)。
「あった。……初代魔王と冠の、大元の契約書だ。呪いってのはな、大抵、契約の形をしてるんだ。そして契約なら――読める。読めれば、穴が探せる」
三晩、読んだ。
悪魔の契約書は、想像を絶する分量だった。本則四十二条、附則十七項、細則、様式集、覚書。一晩目、俺は付箋を三色に分けた(赤・宿主の義務、青・冠の義務、黄・要検討)。書庫の外ではレーヴェが不寝番に立ち、二時間おきに「生きてる?」と声をかけてきた。生きている。書類で死んだ事務屋は、まだいない。多分。
二晩目、エルシーが債権条項の検討に加わり、途中から二人とも無言になった。ひどい契約だったからだ。宿主の睡眠時間は乙が管理する。宿主の感情表出は乙の承認制。宿主の友誼・愛情・信仰は「業務に不要な資産」として凍結する。解約の申し入れは、甲からは、できない。三百年前の石工が、戦乱を終わらせたい一心で判を捺した契約の中身が、これだった。
「……リドさん。私、生まれて初めて、書類に対して祈りました」
「どんな祈りだ」
「地獄に、落ちますように」
聖女の祈りは具体的で恐ろしい。だが、同感だった。俺たちは商会の契約書も、王家の証書も、悪辣な傭兵契約も見てきた。あれらはまだ、人間の欲の書式だった。これは違う。相手を「資産」としか見ていない書式は、読んでいるだけで、指先から冷えてくる。
差し入れは、二晩ともユーリス本人が運んできた。盆を持つ元勇者に、俺たちは恐縮したが、彼は「三百年ぶりに、人に茶を淹れた」と、どこか嬉しそうだった。冠は書庫の中でも当然、頭上にあった。俺たちが自分の契約書を検討しているのを、黒い輝きは黙って見下ろしていた。読まれて困る、とは微塵も思っていないのだ。三百年、誰にも破られなかった書式の、絶対の自信だった。
――その自信が、命取りになる。
「……ヴェイル様は、読まずに捺したんでしょうか」
「読んだ上で捺したんだろうな。第一条の余白に、爪の痕がある。……読んで、分かってて、それでも戦乱を終わらせる方を取ったんだ」
三晩目の明け方、俺は付箋だらけの契約書から顔を上げた。何度か本気で冠を尊敬しかけた。ろくでもない相手ほど、書類は精緻なのだ。
そして、見つけた。三つ。
「第一。第七条『宿主は、乙の許可なく第三者に救援を求める意思表示をしてはならない』。――あんたの懺悔封じと沈黙の、法的根拠はこれだ。裏を返せば、意思表示『以外』は縛れない。求人票が通った理由も、これで説明がつく。冠は自分の書いた条文に、自分で縛られてる」
「第二。第二条細則三『本契約の条項の朗読がなされる間、乙は聴取の義務を負い、契約に反する挙動を停止する』。――自分の書いた契約を、自分で無視できない条項だ。真面目か。この朗読中、冠は動きを縛られる」
「そして第三。解約条項、第九条」
俺は、その頁を開いて、全員に見せた。
『第九条 乙の魔力が完全に枯渇したる時、本契約は終了し、宿主は解放される』
「冠の魔力を、使い切らせるか、消し飛ばすか。それが唯一の解約手続きだ。……で、ここからが問題になる。冠の魔力総量は、三百年分の蓄積だ。並の攻撃じゃ、削る先から回復される。一撃で、貯蔵ごと消し飛ばす超火力が要る。しかも――」
「宿主を、残して」ユーリスが静かに引き取った。「冠は私の頭上にある。冠ごと私を消すのは簡単だろう。だがそれでは『宿主の死』だ。冠は消滅の寸前、最後の魔力で次の宿主へ跳ぶ。……過去に一度、あったそうだ。城ごと魔王を消した英雄が、翌朝、新しい魔王になっていたことが」
「記録が、ございます」ネビュラが、古い帳簿を開いた。「百七十年前。四代目の魔王を、当時の英雄が城塞ごと焼滅させました。当家の帳簿には、翌朝の記載が二行。『新王、即位。前王ノ焼滅ヲ確認セル英雄ナリ』。……備品の引き継ぎ書の筆跡が、前日まで魔王軍を焼いていた男のものに変わっておりました。私の曾々祖父は、その日の日誌に一言だけ残しています。『事務ハ続ク』と」
背筋の冷える二行だった。力で冠を消した者が、次の冠置き場になる。三百年、誰も抜けられなかった輪の形が、帳簿の上に、はっきり見えた。
つまり、条件はこうだ。三百年分の魔力貯蔵を一撃で消し飛ばす、世界最大級の火力。それを、人ひとりの頭上の、冠だけに当てる、針の穴のような精密さ。
全員の視線が、ゆっくりと、一人に集まった。
真紅のローブの魔女は、その視線を受けて――いつもの、あの不敵な啖呵を、切らなかった。
彼女は手帳を、ぎゅ、と握って、俯いていた。
「……火力は、ある。『終焉』は、多分、足りる。冠の貯蔵ごと消せる。でも」
声が、小さかった。初めて聞く、小さな声だった。
「私、一度も、完唱できたことがない。百と七回、詠唱して、百と七回、途中で暴発した。八十七が、最高。……世界の運命が懸かった本番で、百八回目が成功する保証なんて、どこにも」
誰も、笑わなかった。いつもなら「またまた」と茶化すレーヴェが、黙って魔女の隣に座った。エルシーが、反対側に座った。
「ミラベル。あたし、明日の工程表で『四分間、通さない』係なんだって」レーヴェが、膝を抱えた魔女の肩に、こつんと頭を寄せた。「歴代最強の勇者の残像が相手。勝てる保証、あたしにもないよ。でもさ、あたしが四分通さなくて、エルシーが四分緩めて、リドが読み上げて――そうやって稼いだ十一分三十八秒の、最後の一秒を打つのが、あんたの係。……係が違うだけで、賭けてるものは、全員同じ。一人で背負ってる顔、しないでよね」
「ミラベル。あなた、私の懺悔条件を、値切ったことがありませんね」
「……なんの話だ、急に」
「三年間、一度も。どんなに派手に暴発しても、あなたは『治してくれ、対価は払う』と言うだけで、自分の失敗を一度も、誰かのせいにしなかった。……私の帳簿では、それは『信用』という科目に載ります。三年分、積んであります」
「ミラベル」
俺は、彼女の手帳を指した。
「『いつか、100』。……その『いつか』の日付を、決めに来ただけだ。俺たちは」
魔女は、手帳と、仲間の顔と、鎖の解かれた契約書とを、順に見た。それから、洟を一つすすって、いつもの角度に、顎を上げた。
「……ふ。ふふ。いいだろう。百八回目、引き受けた。――ただし条件がある。成功したら、全員、私を『大魔導士ミラベル』と呼ぶこと」
「三日限定でな」
「一週間」
「五日。これ以上は伸びない」
「成立だ」
交渉が成立してしまった。まあ、いい。成功したら、いくらでも呼んでやる。
次回「第34話 決戦前夜」は、8月20日(木)18時30分更新です。




