第32話 魔王の正体
前回:「第31話 魔王城、人手不足につき」
「封じられて、いる……?」
「はい。人の心には、誰にでも、懺悔の泉があります。浅い人も、深い人も。……この方のは、封じられている。栓をされて、三百年分の水が、溢れる寸前まで溜まって、それでも一滴も、外に出ることを許されていない」
エルシーの声が、震えていた。彼女は職業柄、千の心の底を見てきた女だ。脱税の農夫から巨竜の横領まで、どんな罪を前にしても営業スマイルを崩さなかった聖女が、蒼白になっていた。
「こんなに苦しい心を、私、初めて見ました」
玉座の魔王は、しばし黙り、それから、静かに笑った。乾いた、砂のような笑いだった。
「……さすがだな、聖女殿。三百年で、初めてだ。それに気づいた者は」
彼は、両手を兜にかけた。
「面接の前に、面接官の自己紹介をせねばなるまい」
兜が、外された。
現れたのは、魔族の顔ではなかった。人間の――三十絡みの、精悍で、しかしどうしようもなく疲れ果てた男の顔。俺は、その顔を知っていた。知らないはずがない。王都の大聖堂の壁画で、歴史書の口絵で、建国祭の芝居で、何百回も見た顔だ。子供の頃、木剣を振りながら誰もが一度は名乗った、その名前。
「三百年前――初代魔王ヴェイルを討った、勇者……」
「ユーリス、だ」
救国の勇者は、魔王の玉座で、名乗った。
沈黙が、長かった。レーヴェは口を半分開けたまま固まり、ミラベルは「壁画と眉の形が同じ……」と関係のない照合をし、俺の頭の中では、三百年分の歴史書が音を立てて崩れていた。
建国祭の芝居を思い出していた。毎年、祭りの最終日に演じられる『勇者ユーリス凱旋』。子供の頃、俺も木剣を振って観た。芝居の勇者は魔王を討ち、都に凱旋し、万雷の拍手の中で幕が下りる。……凱旋の場面を、実際に見た者は、誰もいないのだ。歴史書は「勇者はその後、静かに姿を消した」と一行で済ませていた。消えたのではなかった。ここに、いた。三百年、幕の下りた舞台の裏側に、立ち続けていた。
「三百二年前。私は仲間とともに、初代魔王ヴェイルを討った。……討った、その瞬間だ。奴の頭上から冠が浮き、勝鬨を上げる私の頭に、降りた。――魔王とはな、人の名ではない。この冠が被る、役職の名だ」
冠は宿主を乗っ取り、その力を使って世界と戦い、宿主が死ねば「その場で最も強い者」へ渡る。ヴェイルが戦乱を終わらせるために鍛え、逆に喰われた呪具。歴代の魔王とは、冠に喰われた哀れな最強たちの、系譜だった。ゴードンの刻印の一節が、頭の中で反響した。『冠ハ我ヲ喰ライ、次ノ宿主ヲ探スダロウ』。石工の王は、最期の夜、全部分かっていたのだ。
「私の仲間は、私を殺そうとした。冠を止めるために。……できなかった。私が返り討ちにしたからだ。この手で。冠に、操られて」
声は平坦だった。三百年、毎晩なぞり続けた傷は、もう血の出方も忘れるらしい。レーヴェが何かを言いかけて、唇を噛んで、飲み込んだ。まだ泣かないと決めた顔だった。もう決めていたらしい。早い。
「なんで――」それでも、声は掠れていた。「なんで、死ななかったの。三百年も」
「死ねば、冠は次へ渡る。『その場で最も強い者』へ。……歴代の勇者は、皆、強かった。私を殺せるほどに強い者は、次の魔王になれるほどに、強い。だから私は、届きそうな勇者を、退け続けるしかなかった。倒しても地獄、倒されても地獄。それが三百年だ」
「戦争を、続けたのも」
「冠の本能だ。冠は戦乱を喰って肥える。私にできたのは、その戦争を、できる限り『下手に』やることだけだった。補給を遅らせ、好機を逃し、攻勢の判を、雨の日まで寝かせる。……三百年、私は世界で一番熱心に、自軍の足を引っ張り続けた総司令官だ」
王国の戦史が「魔王軍は決定的攻勢の直前で必ず停滞する」と首を捻り続けた、その答えが、これだった。歴史の謎が、疲れた男の独白で、一つずつ、解けていく。
彼は、俺たちを――一人ずつ、順に見た。
「そんな時だ。妙な報告が、届き始めたのは。四天王を、殺さずに剥がしていく者たち。討伐数ゼロの、勇者たち。ヴァルガの店の噂を聞いた夜、私は三百年ぶりに、声を出して笑った。冠が警戒して、三日、私の睡眠を奪ったほどだ」
「……笑っただけで罰則付きか。労働環境が最悪すぎる」
「その剣は」レーヴェが、玉座の脇に立てかけられた古い剣を指した。飾りのない、三百年前の意匠の長剣。「……まだ、持ってるんだ」
「捨てられなかった。仲間と選んだ剣だ。冠は『戦力』として保持を許した。……私が握れば、操られてお前たちに向く。分かっていて、捨てられなかった。笑ってくれていい」
「笑わない。剣士は、そういうものだ」
剣聖の即答に、元勇者の目が、少しだけ和らいだ。
「ああ。だから――私は、生まれて初めて、冠の検閲をすり抜けて『助けを呼ぶ』方法を考えた。冠は私の意思ある言葉を封じる。手紙は書けない。使者は送れない。だが――」
「事務書類は、検閲しない」
「その通りだ、事務屋殿」
ユーリスは、疲れた顔で、初めて年相応に笑った。
「文面はネビュラが整えた。私にできたのは、決裁の山に紛らせて、判を捺すことだけだ。冠は、貼り出しの当日まで、あれを備品購入の稟議か何かだと思っていたはずだ」
俺は、懐から三枚の紙片を出した。ヴァルガの受理通知の走り書き。メルヴィナへの走り書きの写し。そして、ルルへのそれ。石床に、時系列に、並べる。
「あんたに、見せたいものがある。……あんたが三百年で零した滴が、どこに落ちたか、だ」
一枚目。『良い店になることを祈る』。「――ヴァルガの店は、街道一の繁盛店です。子供の行列ができる。魔王領にまで、空輸してる」
二枚目。『市場は、続けてやってくれ。両方の民のために』。「――月光市場は商会になって、人間と魔族が同じ祝杯を上げてます。あんたの言った『両方の民』、あれが商会の看板の由来だと、会頭は言いませんが、多分そうです」
三枚目。『顔を上げて暮らせ。舞台、いつか観に行く』。「――ルル座は連日満員です。座長は、誰の記憶にも残らなかった顔で、毎晩カーテンコールに呼ばれてます」
ユーリスは、三枚の紙片を、長いこと、見下ろしていた。玉座の男の喉が、何度か、言葉にならない音を立てた。第七条は意思表示を封じる。だが、聞くことまでは封じられない。だから俺たちは、全部、言葉にして届けた。
「滴じゃない。三百年、あんたは水源だった。……確かめに来た甲斐が、ありました」
「あの求人票が、私の三百年で唯一の、助けを求める声だ。……頼む。私を殺さずに、魔王を終わらせてくれ。――私を、終わらせてくれ」
玉座の間に、その言葉が落ちて、消えた。
最初に動いたのは、ミラベルだった。彼女はつかつかと玉座に歩み寄り、冠を無遠慮に「視た」。魔力残量を計り続けた、あの目で。
「……ふむ。魔力貯蔵、概算で――私の完唱、一発分。ぎりぎり」
「おい、今なんて言った」
「消せる、と言った。理論上は」
理論上。その四文字に、三百年の男の目が、初めて、微かに揺れた。希望というものは、揺れて見えるものらしい。
「……三百年、誰に測られても『不可能』だった。理論上、という言葉を聞くのは、初めてだ」
「私の計測は正確だ。訊きたければ、自分の詠唱進捗で証明してもいい。十一分ほどかかるが」
「やめろ。城が消える」
次回「第33話 冠の契約書」は、8月19日(水)18時30分更新です。




