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第30話 魔王城が見えた

前回:「第29話 鉄壁の沈黙の理由」

門の向こうは、灰色だった。


 空も、土も、遠くの山並みも。風に混じる火山灰が、世界から彩度を一段、削り取っていた。息を吸うと、うっすらと硫黄の匂いがした。王国の緑を見慣れた目に、その灰色は、こたえた。


 魔王領。噂に聞く魔の大地は、しかし、地獄ではなかった。ただ、貧しかった。火山灰を被った畑、痩せた家畜、乾いた水路。目立つのは打ち捨てられた農具ばかりで、鋤の柄が白く風化するまで、拾う者もいなかったらしい。三年続きの凶作という言葉の意味を、俺たちは道すがら、嫌というほど見た。戦争どころではない。この土地は、戦争をする体力すら、もう残っていない。


「……なあ。魔王軍が人間の物流を襲ってた理由、単純だったんだな」


「はい」エルシーが、静かに言った。「飢えです。裏帳簿も陰謀も要らない、一番古くて、一番重い理由」


 街道では、避難する魔族の家族の列とすれ違った。子供を背負った母親が、人間の俺たちを見て身を強張らせ――それから、荷馬車の側面の紋章に気づいて、目を見開いた。


「メルヴィナ商会……それに、あの籠、『風のパン屋』の……」


 補給部隊は国境で止めたが、荷の一部は俺たちが預かって運んでいた。人道支援物資、関税特例区分。三年前、まだ受付だった俺が街道の隅の条例で見つけたザル法は、月光市場の中立通商路を経て、今、正式な支援路として機能していた。ヴァルガのパンが配られ、子供が齧りつき、頬を膨らませ、母親が深々と、何度も頭を下げた。


「……なあ、リド」レーヴェが、ぽつりと言った。「あたしたち、魔王を倒しに来たんだよね。なんで敵地のど真ん中で、炊き出しみたいなことしてるんだろうね」


「うちのやり方が、これしかないからだろ」


「そっか。……うん。いいパーティに入ったなあ、あたし」


 しみじみ言うな。照れる。


 途中の村で、一軒だけ、老いた魔族の農夫が畑に残っていた。避難しないのかと問うと、彼は首を振った。「この芋は、儂が四十年かけて灰に慣らした種だ。置いては行けん」。レーヴェは黙って彼の家の傾いだ屋根に登り、半日で葺き直した。エルシーは芋の貯蔵穴の帳簿(樹皮に刻んだ正の字だった)を検分して、冬越しの配分を計算してやった。別れ際、農夫はぼそりと言った。「……人間の勇者ってのは、屋根を直すもんなのか」。さあ。うちのは直す。世間の標準は、知らない。帰り際、彼は灰に慣らした芋を四つ、押し付けるように寄越した。「戦が終わったら、また来い。蒸かすと、うまい」。約束の形をした芋を、俺は大事に荷袋へ仕舞った。


 道中、ヴァルガの地図の窯を二つ借りた。固くなったパンを焼き直すと、村の子供が匂いに釣られて集まってきた。魔族の村の竈の前で、人間の勇者パーティがパンを配る。三百年の戦史のどこにもない光景だろう。エルシーは配給の列を完璧に捌き(並ばせ方が上手すぎて怖い)、ミラベルは「私の火力なら窯なんて一瞬」と主張して全員に止められていた。いつも通りである。


 六日目の夜、最後の野営で、焚き火を囲みながら、誰からともなく、その話になった。


「……魔王って、どんなのだと思う」レーヴェが、火を見つめて言った。


「走り書きの主です」エルシーが手帳を繰った。「開店を祝い、市場を残せと言い、舞台を観に行くと約束し、ゴードンさんいわく、玉座で泣いている。……私の商売柄の見立てを言えば、あれは、罪を抱えた方の筆跡です。それも、三百年ぶんの」


「三百と二年、だな。ネビュラさんの言い方だと」と俺。「そして冠は宿主を『喰う』。初代ヴェイルは冠に喰われた。なら現魔王も、三百年、喰われ続けてる最中ってことになる。……俺たちが会いに行くのは、魔王っていうより」


「――三百年、辞められない職場で働いてる人、だね」


 レーヴェの纏めに、全員が黙った。ミラベルまで黙った。うちのパーティがこの世で一番聞き流せない種類の話だった。


「よし」剣聖が、立ち上がって伸びをした。「明日、迎えに行こう」


「討伐な。表向きは、討伐」


 七日目。それは、見えた。


 灰色の平原の果て、黒曜石の峰を背に聳える、漆黒の城。尖塔は雲を突き、城壁には三百年の戦の傷跡が刻まれている。魔王城。世界のすべての物語で「終わり」に置かれる場所に、世界一それにふさわしくない四人が、辿り着いた。


 ――ここで少しだけ、俺たちの知らない場所の話をする。後にネビュラから聞いた、その夜の玉座の間の話だ。


 玉座の間は、暗かった。燭台は半分しか灯されていない(経費削減である。総務部の方針だ)。報告に立つ総務官ネビュラの声だけが、高い天井に響いていた。


「【鉄壁】ゴードン、国境の門を開放。パーティ《(仮)》、領内を北上中。……道中、避難民に物資を配給しながら、とのことです」


 玉座の影が、微かに揺れた。兜の奥から、低い、疲れ果てた声がした。


「……配給しながら、討伐に来るのか。彼らは」


「はい。極めて、彼ららしいかと」


「ゴードンは、どうしている」


「門の脇に、座っております。三百年ぶりの休憩だそうです。……座り方を、忘れておいででしたが」


「そうか。……座れたか、あれも」


 声が、わずかに緩み、すぐにまた、重く沈んだ。


「ネビュラ。私が、この城で過ごした年月は」


「御身が戴冠されて、三百と二年にございます」


 長い沈黙。玉座の主は、両手で顔を覆った。その頭上で、漆黒の冠が、主の絶望など知らぬげに、鈍く輝いていた。


「……もう、終わりにしよう。三百年は、長すぎた」


「――張り紙の文面は、御指示の通りに。あの検閲狂いの冠も、事務書類までは、読みませんでしたので」


「ああ。……頼んだぞ、ネビュラ。私の、最後の求人だ」


「お任せください。求人は、総務の職掌ですので」


 一礼して退出しかけた総務官は、扉の前で一度だけ足を止め、振り返らずに言ったという。


「……三百二年間の、ご勤続に。当課一同、心より」


「まだ辞められると決まったわけではないぞ、ネビュラ」


「はい。ですので、まだ申し上げません。続きは、受理の日に」


 ――そして翌朝。魔王城の正門の前に立った俺たちは、それを見た。


 三百年の威容を誇る、高さ三十メートルの漆黒の大門。竜の浮き彫りが牙を剥き、傷跡が歴史を刻む、世界最強の門扉。その、ちょうど人間の目の高さに、一枚、ひらりと貼られた紙を。


『求人 幹部急募(四名)

 ・書類に強い方、歓迎

 ・涙もろい方、可

 ・詠唱の長さ、不問

 ・懺悔を聞ける方、優遇

 経験不問 委細面談  魔王城 総務部』


 四人、まじまじと読んだ。読み終えて、顔を見合わせた。もう一度読んだ。


「書類に強い方、歓迎……」


「涙もろい方、可……あたしだ」


「詠唱の長さ、不問! 聞いたか、不問だぞ! 世界は私に追いついた!」


「懺悔を聞ける方、優遇。……あら。優遇」


 条件が、四人分、きれいに揃っている。偶然なら奇跡だし、狙いなら――俺たちのことを、恐ろしく正確に調べ上げた誰かがいる。そして俺は、この求人票の書式に、見覚えがあった。余白の取り方、読点の打ち方、決裁欄の位置。三通の受理通知で見た、あの几帳面な事務の字。


「「「「……これ、うちの履歴書では?」」」」


(第5章・了 →最終章「魔王城、面接から決戦へ」へ続く)

次回「第31話 魔王城、人手不足につき」は、8月17日(月)18時30分更新です。

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