第29話 鉄壁の沈黙の理由
前回:「第28話 11分38秒への挑戦」
刻印の石板は、巨人の胸の中央に、周囲より一段深く、丁寧に埋め込まれていた。三百年の風雨に晒されたはずの表面が、ほとんど摩耗していない。理由は、すぐに分かった。石板の縁に、無数の細かい擦り跡があったのだ。何かが、何百年も、定期的に、そこを拭い続けた跡だった。石の指では細かい作業ができないだろうに、それでも。
古代文字は、王都の書庫で齧った知識と、エルシーの教会文字の素養を合わせて、なんとか読めた。二人がかりで、一文字ずつ。エルシーが字形を読み、俺が構文を組む。古代文字の公文書は、幸か不幸か、現代の書式の先祖だった。読み進めるほど、指先が冷えていった。
それは、命令書だった。
『石ノ子ゴードンヘ 我ガ命ハ尽キル 冠ハ我ヲ喰ライ 次ノ宿主ヲ探スダロウ オ前ニ最後ノ命令ヲ遺ス ――民ヲ守レ 初代魔王ヴェイル』
沈黙が、更地に落ちた。
「初代魔王、ヴェイル……三百年以上前に、勇者ユーリスに討たれた、最初の魔王。……こいつは、その時代からの」
「肯定」
「ヴェイルは、どんな王だった」
「石工デアッタ」意外な答えだった。「王ニナル前ハ、石工。我ヲ造ッタ手ハ、剣ダコデハナク、鑿ダコノ手。我ニ、名ヲ与エタ。『ゴードン』。故郷ノ山ノ名ダト、言ッテイタ」
道具に名前をつける種類の人間だったのだ、初代魔王は。レーヴェが小さく「いい人だ」と呟いて、もう目元を拭っていた。早い。
ゴードンの声に、初めて、機械音以外の何かが混ざった気がした。
「我ハ、ヴェイル様ニ創ラレタ。ヴェイル様ハ、戦乱ヲ終ワラセル為、冠ヲ鍛エ、冠ニ喰ワレタ。最期ノ夜、我ノ胸ニ、コノ命令ヲ刻マレタ。以来――我ハ、門ヲ守ッテイル」
「三百年、この場所で」
「肯定。歴代ノ魔王ガ、門ヲ開ケト命ジタ。我ハ、開ケナカッタ」
「命令違反じゃないのか、それは」
「魔王ノ命令ト、ヴェイル様ノ命令ガ、矛盾スル場合、古イ命令ヲ優先スル。門ノ向コウニ攻メ入レバ、民ガ死ヌ。命令ト、矛盾スル」
「罰は、なかったのか。命令に従わない四天王など」
「アッタ。二代目ノ王ハ、我ヲ砕コウトシタ。三日デ、諦メタ。我ハ、砕ケナカッタ。五代目ノ王ハ、我ヲ溶カソウトシタ。我ハ、溶ケナカッタ。……我ハ、守ル為ニ造ラレタ。壊レ方ヲ、教ワッテイナイ」
「今日、初めて壊れかけたわけだ。……悪かったな」
「否定。八十七パーセントノ詠唱。観測データトシテ、極メテ貴重。……悪クナカッタ」
瓦礫の下から聞くには豪気すぎる感想だった。ミラベルだけが「だろう?」と胸を張った。
さらりと言われた内容の凄まじさに、誰も、しばらく声が出なかった。
三百年。歴代の魔王に叛いて、たった一枚の命令書を守り続けた。攻め入るための唯一の門が、三百年、開かなかった理由。人間側の戦史が「魔王軍は大規模侵攻の直前で必ず停滞する」と首を捻り続けた、その答えが、目の前で崩れかけている石の巨人だった。
俺は、はっとした。地図の付箋。攻め寄せる側の、律儀な避難布告。そして――魔王軍五万の「集結」。
「……おい、まさか。今、この要塞に軍が集まってるのは、攻勢準備じゃなくて」
「否定。現ノ王ノ命ニヨリ、全軍、国境ノ内側ヘ後退。我ハ命ジラレタ。『門ヲ、内カラ閉ザセ』ト」
閉じ込めていたのだ。魔王は、自分の軍を。冠が全面侵攻を強行する前に、軍を国境の内側に集め、唯一の門に鍵をかけた。世界中が「最終攻勢の兆し」と読んだ動きは、その正反対――三百年で最大の、封じ込めだった。避難布告は、開戦の狼煙ではなく、万一、封じ込めが破れた時のための、保険だったのだ。
レーヴェが、ぽつりと言った。
「……あたし、さっき、中身が『無い』って言った。取り消す。……今は、聞こえる気がする。すごく静かで、すごく古い、心音みたいなものが」
「ダガ、我ニハ判別デキナカッタ」ゴードンの声が、軋んだ。「オ前タチハ、王ヲ討チニ来タ。通セバ、王ガ死ヌ。王ガ死ネバ、冠ハ次ノ宿主ヘ移リ、更ニ強イ魔王ガ生マレ、民ガ死ヌ。故ニ、通行、不可。……ダガ、オ前タチハ、我ヲ、掘ッタ。敵ヲ、掘ッタ。判別、不能。我ハ――ドウスレバイイ」
三百年、命令だけを頼りに立ち続けた石の巨人が、初めて、問うた。誰かに答えを求めた。その声はもう、地鳴りには聞こえなかった。
俺は、胸の刻印の前に立った。事務屋として、条文の前に立つ時の姿勢で。背筋を伸ばし、一言一句を、指でなぞって。
「ゴードン。この命令書を、もう一度読め。『民ヲ守レ』――ヴェイルは、どの民とも書いていない。魔族とも、人間とも。……つまり対象は『すべての民』だ。起草者の意図を補う解釈は、後続の条項と矛盾しない限り、広い方を採る。契約解釈の大原則だ。そして今、両方の民を等しく脅かしているのは、王国軍でも魔王軍でもない。三百年、宿主を喰らい続けて、次の戦争を始めようとしている――冠だ」
「…………」
「俺たちは魔王を殺しに行くんじゃない。王国との契約書に明記してある。『討伐の定義は無力化とし、殺害を要件としない』。第三条だ、読むか? うちの実績も知ってるだろう。四天王三人、討伐数ゼロ、全員生存、うち一人はパン屋、一人は商会長、一人は座長だ。うちはな、誰も殺さずに終わらせるのだけが、取り柄なんだ」
青い目が、差し出された契約書の写しと、自分の胸の刻印と、俺たちの顔を、順に見た。書類を「見た」のだ。読む機能がないはずの目で、長い、長い演算の沈黙のあいだ、ずっと。
やがて、石の巨人は、ゆっくりと立ち上がった。ひび割れた巨体を軋ませ、崩れた半身から砂を零しながら、更地に残った最後の構造物――巨大な門の前に歩み寄り、三百年、誰にも開けなかったそれに、手をかけた。
「――命令ノ解釈ヲ、変更スル」
石の軋む音とともに、国境の門が、開いた。三百年ぶりの蝶番の悲鳴は、産声のようにも聞こえた。
門を潜る前に、エルシーが一人、巨人の前に戻った。手帳を開き、新しいページに、丁寧な字で名前を書き付ける。
「ゴードンさん。あなた、『罪ノ記録、ナシ』と言いましたね。訂正します。罪はなくても――三百年ぶんの、誰にも聞かれなかった話が、あなたにはあります。罪でなくても、聞きます。いつか、全部。……神は見ています。私も見ています。三百年前から立っていたあなたのことを、今日からは、私が」
「……記録、サレルノカ。我モ」
「ええ。もう、されています」
青い目の光が、ほんの少しだけ、揺らいだように見えた。石は泣けない。泣けないだけだと、俺は思うことにした。
俺も一つ、置いていくことにした。例の申請書一式である。読まれなかった、会心の書類。俺はそれを、巨人の足元の平らな石の上に、重石を載せて置いた。
「受理はいい。だが、記録は残す。『某年某月某日、パーティ《(仮)》、正規の手続きで通行を申請した』。……あんたが三百年守った門を、うちは、書式を踏んで通った。それが残ってれば、あんたの三百年は、破られてない」
「…………記録、確認」
石の指が、驚くほど繊細な動きで、重石の位置を、少しだけ直した。風で飛ばない角度に。
「行ケ。……王ヲ、頼ム。アノ方ハ、玉座デ、泣イテイタ」
門を潜る俺たちの背に、石の軋む音が続いた。振り返ると、巨人は門の脇に、ゆっくりと腰を下ろすところだった。三百年立ち続けた者の、初めての休憩である。座り方が、明らかにぎこちなかった。だが、座った。それでいい、と思った。
次回「第30話 魔王城が見えた」は、8月16日(日)18時30分更新です。




