第3話 害獣退治と身の上話
前回:「第2話 監督者という名の人身御供」
ロッソ村は、アステルの街から徒歩半日の農村だった。麦畑と芋畑が広がる、絵に描いたような平和な村である。ただし現在は、絵の隅が齧られていた。
「見てくだせえ、この有様を」
村長は俺たちを畑の縁に案内した。麦畑の一角が、巨大な何かに踏み荒らされ、芋畑には人の頭ほどもある掘り返しの痕が点々と続いている。柵は三箇所で圧し折られ、折れ口の太さから、俺は思わず唾を呑んだ。
「夜になると出るんでさ。図体は納屋ほどもあって、牙は剣のようで。若い衆が松明で追い払おうとしたら、突進の風圧だけで三人まとめて吹っ飛ばされて……もう、村じゃどうにも」
害獣の正体は、足跡と体毛から特定できた。ベヒボア。体高三メートル級の猪型魔獣。討伐等級C上位。突進は小屋を潰し、皮膚は生半可な刃を通さない。受付時代、この魔獣の討伐依頼で帰ってこなかったパーティを、俺は二つ知っている。
「……報酬、銀貨三十枚は安すぎたな」
だが、うちには規格外がいる。日没後、月明かりの畑で、俺たちは待ち伏せた。果たして、そいつは来た。地響きと共に柵をまたぎ、芋畑に鼻先を突っ込む巨体。月光の下で見ると、想像の一・五倍あった。
「レーヴェ、頼めるか。一撃で、苦しませずに」
「任された」
レーヴェが立ち上がり、剣を抜いた。そこから先を、俺の目は追えなかった。畑の土が一直線に爆ぜ、次の瞬間、彼女はもうベヒボアの懐にいて、白刃が巨体の首筋に吸い込まれ――
止まった。
ぴたり、と。刃が毛皮に触れる、その寸前で。
ベヒボアも固まっていた。レーヴェも固まっていた。月明かりの下、一秒、二秒、三秒。それから彼女は、剣を提げたまま、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、もう、くしゃくしゃだった。
「……ねえ、リド。今、この子……『子供が』って、言った」
「は?」
「この子、今、鳴いたの。低く、短く。『子供が、腹を空かせてる』って。……あたし、聞こえちゃった」
「魔獣語が分かるの!?」
分かるらしい。後から本人に聞いたところ、剣聖の域に達した五感は、敵の筋肉の軋みから呼吸、心音、そこに乗る感情の色まで、全部読み取ってしまうのだそうだ。かつて師匠には「敵を読む力こそ剣の極意」と教わったという。その極意が、彼女の中では世界最強の耳となり、世界最強の涙腺に直結していた。師匠は泣いていいと思う。
レーヴェはその場に剣を置き、三メートルの魔獣の前に、無防備に膝をついた。
「……話して。ゆっくりでいい。あたし、全部聞くから」
カウンセリングは、二時間に及んだ。
最初の三十分、ベヒボアは唸り、威嚇し、前脚で土を掻いた。レーヴェは動かなかった。次の三十分、唸り声は途切れ途切れの低い鳴き声に変わった。俺たちは畑の縁で待機し、エルシーが村長の家から茶を借りてきて、ミラベルは「私の出番は」と三回聞いて三回却下された。最後の一時間、月がだいぶ傾いた頃、巨大な魔獣は畑の真ん中に腹ばいになり、剣聖の細い手に、鼻先を預けていた。
要約すると、こうだ。ベヒボアは元々、北の森の主だった。畑を荒らす気などなかった。だが数ヶ月前、巣穴の下に「魔素溜まり」が湧いた。魔素に中てられた森の木の実は腐り、川の魚は逃げ、そして彼女には――乳飲み子が、二頭いた。母は、飢えた子のために、生まれて初めて、人里の柵をまたいだ。
「ぞんな゛の゛……荒らずじがな゛いじゃな゛いがぁ゛……! わだじだって、おながずいだ子どもがいだら、畑ぐらい……!」
「泣きすぎて言葉が崩壊してるぞ。あと共感で犯罪を肯定するな」
とはいえ、事情は分かった。分かってしまった。俺は月明かりの下で腕を組み、受付五年分の頭を回した。討伐は、レーヴェが絶対にやらない(物理的に可能でも精神的に不可能だ)。放置すれば村が飢える。追い払っても魔素溜まりがある限り戻ってくる。ならば。
「――村長。提案があります」
夜明けの村役場で、俺は一枚の契約書を書き上げた。表題『害獣被害防止に関する用心棒契約』。ベヒボアは村の畑の収穫の一部(規定量を明記)を受け取る。対価として、他の害獣・野盗の類いから畑を守る。契約期間は一年、更新は双方合意。署名欄には村長の名前と――ベヒボアの、泥をつけた蹄の印。
「ま、魔獣と契約なんて、聞いたこともねえ」
「魔獣だろうと、利害が一致すれば契約は成立します。彼女は森一番の主だ。彼女が畑にいるだけで、狐も鹿も野盗も寄りつきませんよ。……用心棒としては、破格の安さです」
そして、根本原因の魔素溜まり。これについては、俺が役所に「危険魔素発生の届出書・第七号様式」を作成して提出した。国土保全法により、届け出られた魔素溜まりは国費で撤去される。つまり、届け出れば国がやってくれるのだ。誰も、届け出の書式と提出先を知らないだけで。俺は知っている。受付の隣の窓口が、その担当だったから。
村は安全になり、母子は救われ、森もいずれ戻る。万事、解決である。――報酬を、除いて。
「……ギルド規定、第三十一条」
俺は、震える手で規定集を読み上げた。五年間、窓口で何百回と読み上げてきた、あの条文を。
「『討伐報酬は、討伐完了時にのみ支払われる。生け捕り、和解、更生、その他討伐に至らない解決は、支払い対象外とする』」
「そんな……!」
「そんな、じゃない。……俺はこの条文で、五年間、冒険者を泣かせてきた側だ。『クマを説得しました』とか言い出す奴に、鬼の顔で『対象外です』と言ってきた側なんだ。……まさか、自分が言われる側に回るとは」
銀貨三十枚が、月光の彼方に消えた。往復一日の労働と、二時間のカウンセリングと、完璧な契約書一枚の対価は、ゼロ。呆然と座り込む俺たちに、村長がおずおずと近寄ってきた。
「あのう……せめて、というわけでもねえんですが。わし、実は腰を痛めとりまして。回復術を使いなさる方がおられるなら、診てもらえんかと。もちろん、お代は払いますで」
ぎっくり腰だった。エルシーが、にっこりと微笑んだ。
「治せますよ。お代も結構です。――そのかわり、懺悔をどうぞ」
「ざ、懺悔? ……ええと、その。わし、若い頃、隣村の祭りで、ちょっとした喧嘩を」
「それではありません。もっと重いのが、あるでしょう。……神は見ています」
村長の顔から、血の気が引いた。俺は嫌な予感がした。エルシーの「神は見ています」は、当てずっぽうではない。彼女には視えるのだ。人の心に沈んだ、一番重い澱が。
「…………収穫を。収穫を、少なく、申告して。その、税を……もう、十年ほど」
脱税だった。それも十年物の。エルシーの回復は輝かしく発動し、村長の腰は完治し、懺悔は黒革の手帳に丁寧に記録され、村長は治った腰から崩れ落ちた。
そこで、俺の出番である。
「村長。落ち着いて聞いてください。修正申告というものがあります。バレる前に自主的に申告すれば、加算税がぐっと軽くなる。放置して査察が入れば、重加算税で首が回らなくなります。……書類、代行しますよ。ちょうど様式も頭に入ってるので。――手数料は、いただきますが」
その日、パーティ《かっこかり》の記念すべき初収入は、討伐報酬・銀貨三十枚ではなく、確定申告代行手数料・銀貨十二枚だった。帳簿の摘要欄に「申告代行」と書きながら、俺は自問した。冒険者とは、いったい何なのか。
帰り道、月はもう西に沈みかけていた。畑の縁では、巨大な用心棒が早速、夜番よろしく寝そべっていて、村の子供が怖々と、しかし興味津々に芋を差し出していた。悪くない光景だった。銀貨十八枚ぶんを除けば。
と、隣を歩くミラベルが、不満げに頬を膨らませた。
「ねえ! ねえってば! 私、今日、ひとことも詠唱してないんだけど!? 真紅の魔女、出番ゼロなんだけど!?」
「今日が平和に終わった理由を、今、お前が自分で言ったな」
「むきーっ!」
次の依頼こそは、と息巻く終焉の魔女を眺めながら、俺は胃の奥に、小さな予感を覚えていた。この予感は、翌週、四十二パーセントという数字になって的中する。
次回「第4話 詠唱42%の壁」は、7月21日(火)18時30分更新です。




