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第26話 国境の壁

前回:「第25話 世界一後ろ向きな進軍」

壁の手前、最後の丘で野営した夜、俺は連絡将校から、王国の持つ【鉄壁】の資料を借りて読み込んだ。


 資料は、薄かった。三百年分の記録として、異様なほどに。曰く、要塞は過去に十七回攻められ、十七回、攻め手が撤退した。損害の記録はあるのに、要塞側からの追撃の記録が、一度もない。そして最後の頁に、歴代の斥候たちの申し送りが、短く書かれていた。『門は、こちらから触れぬ限り、何もしてこない。だが、開いた記録もまた、一度もない』。


「攻めてこない要塞、ですか」エルシーが手帳越しに言った。「守るだけの軍事拠点。……妙ですね。門というものは、開けるために作るものでしょうに」


「あたしは好きだけどね、そういうの」レーヴェが剣の手入れの手を止めずに言った。「三百年、誰も傷つけてない要塞。……でも、明日はあたしたちが攻めるんだ。変な気分」


「攻めない。まず、話す。攻めるのは、全部の窓口が閉まってからだ」


 この時の俺は、窓口が「最初から存在しない」可能性を、まだ甘く見ていた。


「ああ。三百年、一度も開かない門だ。……嫌な予感と、妙な予感が半々だな」


 翌朝、俺たちは丘を降りた。


 要塞は、静かだった。


 二百メートルの壁が近づくほど、静けさは濃くなった。城壁の上に集結しているはずの魔王軍五万の姿は、外からは見えない。矢の一本も飛んでこない。物見の影も、旗も、炊事の煙すらもない。俺は歩きながら矢狭間の数を数え、途中でやめた。三百を超えたからだ。あれが全部埋まっていたらと考えるのは、精神衛生に悪い。


 ただ、門の前に、それは立っていた。


 高さ十メートルの、石の巨人。継ぎ目のない灰色の巨体。関節に当たる部分はなく、それでいて立っている。目に当たる部分に、二つの青い光が、静かに灯っていた。


 四天王筆頭【鉄壁】ゴードン。


「――止マレ」


 地鳴りのような声だった。声というより、地面そのものが震えて言葉の形になったような音だった。


「当要塞ハ、封鎖中。通行、不可」


「話し合いに来た。俺たちは王国の使い――」


「通行、不可」


「魔王に会いたいだけだ。戦う気は」


「通行、不可」


「では、受付は。取り次ぎの窓口は」


「窓口、ナシ」


「権限者への伝言は」


「伝言機能、ナシ」


「……面会予約は」


「予約制度、ナシ」


 取り付く島が、ない。窓口業務五年の俺が知る限り、最悪の窓口である。窓口ですらない。俺は仲間を振り返った。こういう時のための、うちの必勝パターンがある。


「レーヴェ、頼む」


 剣聖が進み出て、巨人を見上げ、いつものやつを始めた。


「あんた、ずっとここに立ってるんだろ。……辛かったこと、あるんじゃないか。話してみな」


「該当情報、ナシ」


「じゃあ、嬉しかったことは」


「該当情報、ナシ」


「家族は」


「該当情報、ナシ」


「……好きな食べ物とかは」


「摂食機能、ナシ」


 レーヴェが、青ざめた顔で戻ってきた。四天王二人と巨竜を泣かせた女の顔から、血の気が引いていた。


「……だめだ。心音がない。呼吸がない。疲労も、強がりも、感情の揺れが、何も読めない。あたし、生まれて初めて、相手の中身が『無い』」


 次、エルシー。聖印を掲げて、完璧な営業スマイル。


「あなたの魂の傷、癒やして差し上げます。お代は懺悔で結構です」


「罪ノ記録、ナシ」


「あら。誰にでも、隠したい過去の一つや二つ」


「記録、ナシ」


「……神は見ています」


「観測者ノ存在、確認デキズ」


「言いましたね?」


 エルシーの微笑から温度が消えた。神学論争を始めかけた聖女を、俺は全力で回収した(「あとで宗教裁判です」と物騒なことを呟いていた。石は裁けない)。回収の途中、彼女は未練がましく振り返って付け加えた。


「では、取引はいかがです。門を開けてくださったら、あなたの三百年の油……ではなく関節の軋み、聖油で清めて差し上げます」


「取引権限、ナシ」


「寄進という形なら」


「収受機能、ナシ」


「……この方、経理的にはある意味理想です。絶対に横領しません」


 褒めているのか悔しがっているのか分からない評価を残して、聖女は下がった。


 次、俺だ。昨夜、徹夜で起草した「国境通行許可申請書(特例)」一式を、恭しく差し出す。我ながら会心の出来だった。王国標準様式に準拠しつつ、鹵獲文書で読んだ魔王軍服務規程第九章の形式要件も満たし、通行目的は「労使交渉」、添付書類は四天王三名の退職届受理通知の写し。どこに出しても通る書類だ。


「申請書です。様式は王国標準に準拠、魔王軍服務規程第九章の形式も踏まえて――」


 石の巨人は、書類を、見なかった。受け取りもしなかった。青い目は、俺の手元に、一度も向かなかった。


「書式、不明。受理権限、ナシ。通行、不可」


「なら様式を貴軍のものに合わせる! 服務規程の該当様式の写しをくれ!」


「開示機能、ナシ」


「受理権限がないなら、権限のある部署に回してくれ! 書類は回すものだ!」


「回送機能、ナシ」


「機能がないなら、せめて保管を! 時効まで寝かせるだけでもいい!」


「収受機能、ナシ」


「……読まない、だと……?」


 膝から力が抜けた。書式不明ではない。読む機能を、最初から積んでいないのだ。話が通じない。涙が通じない。懺悔が通じない。そして――書類が、通じない。結成以来、初めてだった。うちの搦め手が、四枚全部、切れない相手は。


 振り返ると、仲間たちも同じ顔をしていた。全員の得物が、一つ残らず不発。この党、実は戦闘職が一人しかいないという事実を、こんな場所で再確認することになるとは。


「ふっ……ふふふ……つまり!」


 最後の一人が、マントを翻して進み出た。嫌な予感しかしなかった。


「残るは私、ということだね?」


「待てミラベル、まだ検討が」


「検討は終わった! 諸君、認めたまえ。話せず、泣かせず、悔いさせず、書かせられない敵――ならば残る道は、古今東西、ひとつしかない!」


 ミラベルは巨人を指差し、高らかに宣言した。


「――正面突破だ!!」


 沈黙が一拍。俺は頭の中で、あらゆる代替案を最速でめくった。迂回路――なし、唯一の門だ。坑道――二百メートルの壁の基礎を掘る工期はない。空路――飛竜便は軍事転用禁止条項がある。……ない。書式で潰せる例外が、一つもない。


「……悔しいが」俺は、生まれて初めて言った。「稟議を通す。正面突破で」


 言った瞬間、三人の反応は見事に割れた。レーヴェは無言で肩を回し始めた。関節の鳴る音が、妙に嬉しそうだった。エルシーは手帳をぱたんと閉じ、帯に差した。窓口の「本日の受付は終了しました」の札と、同じ所作だった。そしてミラベルは、両手を天に突き上げて、その場でくるくる回った。


「聞いたか諸君! 事務屋が! うちの事務屋が、正面突破を承認した! 記念日だ! 暦に載せろ!」


「載せるな。あと条件がある。ミラベル、詠唱は俺の合図まで温存。レーヴェ、単独で深追いしない。エルシー、回復の優先順位はいつも通り。……全員、生きて門を潜る。それが決裁条件だ」


「「「承知!」」」


 返事だけは、いつだって世界一の連中である。


 石の巨人の青い目が、初めて、ぎ、と音を立ててこちらを向いた。俺たちを「通行希望者」から「排除対象」へ、区分を書き換えた音に聞こえた。


 要塞の壁が、生き物のように、軋み始めた。二百メートルの灰色の絶壁、その全体が、だ。

次回「第27話 正面突破しかない」は、8月13日(木)18時30分更新です。

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