第25話 世界一後ろ向きな進軍
前回:「第24話 王命」
出立の朝、王都の大通りは万雷の歓声に包まれていた。
「「「勇者様、万歳ーーー!!」」」
「……なあ、この歓声、断れなかったのか」
「陛下いわく『士気のためだ、笑って手を振れ』とのことです」
沿道に振られる小旗には、急ごしらえの意匠で『(仮)』と染め抜かれていた。王家の旗職人が三日徹夜したらしい。括弧の曲線の再現に、職人の意地を感じる出来だった。何もかもが間違っている。間違っているが、沿道の子供が『(仮)』の旗を嬉しそうに振っているのを見ると、何も言えなくなった。名前は、そろそろ本当に決めた方がいいのかもしれない。
人混みの中に、見知った顔があった。装飾のない鉄の剣を提げた、元・公認勇者。カインだ。
「見送りに来た。……今の俺は初級冒険者だから、国境までは付いていけないが」
「今、何やってるんだ」
「王都の下水道の清掃依頼。今朝も潜ってきた」
「楽しいか」
「ああ」即答だった。「誰の検収も受けない仕事は、三年ぶりだ」
彼は俺に、小さな包みを押し付けた。中身は砥石だった。「レーヴェ殿に。……俺を思い出して剣が鈍ったら、困るだろ」。渡しておく、と請け合うと、勇者だった男は雑踏に消えた。いい顔のままだった。
出立に先立ち、宰相府では前金の引き渡しがあった。契約条項第二条、遠征費用前金半額。運ばれてきた鉄鋲の櫃を開け、俺は中身を検めた。金貨の袋を一つずつ卓に出し、封蝋を確かめ、数える。宰相府の役人が「そこまでなさいますか」と半笑いで言ったので、「受領書に『中身は確認していません』と書くわけにはいかないので」と返したら、真顔になって一緒に数え始めた。二人で数えて、二枚欠けが見つかった。役人の顔色のほうが、金貨より白くなった。悪意ではなく計数誤りだったが、こういうことがあるから数えるのだ。受領書は正しい額で切った。
「王家相手に検収する勇者、王国史上初では」
「検収しない勇者が今まで何人踏み倒されたか、統計を取りたいですね」
――王国正勇者パーティ《(仮)》、魔王城へ向けて進発。
同時に王国軍五万にも動員が下り、国境到達まで二十日。それまでに俺たちが「無力化」を果たせなければ、三百年ぶりの全面戦争が始まる。契約書に自分で書いた「討伐の定義は無力化とする」の一文が、今や世界の運命を縛る納期になっていた。事務屋、人生最大の納期である。俺は初日の夜営で工程表を引いた。移動十二日、予備三日、交渉五日。交渉五日で魔王を退職させる工程表を引いている時点で、俺の正気も大概怪しい。
さて、進軍の実態はどうだったかというと。
「本日のお夕食は、仔羊の香草焼きと三年物の赤でございます」
「補給が豪華すぎる!!」
メルヴィナ商会の補給部隊が、俺たちの行程に完璧に並走していた(無論、有償である。遠征費は王室持ちなので、遠慮なく請求書を回した。品目「士気維持費」。通る書式にしてある)。責任者いわく、「会頭から『あの子たちを絶対に飢えさせるな。死なれると出資が焦げるから』と申しつかっております」。愛か債権管理か、判然としないのがあの女王らしかった。
三日目には空から影が差し、焼きたてのパンの入った籠が、ふわりと降ってきた。ヴァルガの空輸便だ。籠には手紙が添えてあった。
『固くなったら焼き直せ。魔王領の窯の場所は裏面に描いた。全部、俺が昔使った窯だ』
裏面には、几帳面な地図。敵地の竈の位置を勇者に教える元四天王が、この世界のどこにいる。ここにいた。
五日目には劇団『ルル座』の名入りの封筒が届いた。中身は、恐ろしく精密な魔王城の見取り図。廊下の幅から歩哨の巡回間隔まで書き込んである。走り書きが一言。
『記憶で描いた。使い道は任せる。これで貸し借りなしだ。──公演、成功してる。』
「……なんだろうな。世界一手厚くて、世界一士気の低い進軍だ」
並走する王国軍の連絡将校は、うちの野営に夕食の匂いを嗅ぎつけるたび、複雑な顔で自軍の乾パンを齧っていた。三日目から、彼のぶんの皿も出すようになった。報告書には書かないでもらっている。
夜営の過ごし方は、それぞれだった。レーヴェは日没後に必ず千回の素振りをした。カインの砥石を使うようになってから、剣の手入れの時間が少し延びた(「この砥石、いい子だ」と剣と砥石の両方に話しかけていた)。エルシーは手帳の繰越計算をしていた。うちの債務残高から、日々の支援物資の配給記録まで、あの手帳には王国の主計局より正確な数字が載っている。俺は俺で、アステルのギルドに定期報告の手紙を書いた。宛先はバッソギルド長。追伸はミレット先輩宛て。『そちらの窓口は平和ですか。こちらは本日、進軍中の丘で野生の岩兎が申請書類の束を齧りました。損害軽微、再発防止策は重石です』。数日後の返信には『あんたの再発防止策が聞けて安心したわ。こっちの新人が差し戻しゼロを三日達成。あんたの記録はまだ破られてない』とあった。世界の果てに向かう道中でも、窓口は回っている。いいことだ。
夜営の焚き火で、俺はふと、ミラベルの手帳が地面に落ちているのに気づいた。拾い上げた拍子に、開いてしまった。
几帳面な字で、日付と数字が並んでいた。三パーセント。八。十五。二十六。三十八。四十二。五十一。四十四。四十七。……毎日だ。あいつは毎日、宿の裏や荒野で詠唱して、毎日、届かない数字を記録している。数字は素直に伸びてなどいない。五十一の翌日に四十四に落ち、また少しずつ這い上がっている。それでも記録は、一日も、欠けていない。最後のページには、数字ではなく、一行だけ書いてあった。
『いつか、100』
「――見たな」
背後に、ミラベルが立っていた。俺は手帳を閉じて返した。
「悪い。……なあ、一つ聞いていいか。なんで超級魔法なんだ。下級から覚えれば、今頃百発百中の魔導士だろうに」
「ふ。愚問だね」
彼女は手帳を胸に抱いて、焚き火の向こうの闇を見た。
「下級を千回完成させるより、最強を一回完成させる方が、かっこいいからだ」
「理由が最悪だ」
「でも君、今、ちょっと笑っただろ」
笑っていた。悔しいが。
「私はね、事務屋。百まで数えるのを諦めたことは、一度もないんだよ。途中で暴発するのと、諦めるのは、違う」
「……知ってるよ。毎日の記録を見れば、分かる」
「ふふん。なら、いつか百になった日は、君の帳簿にも書いておきたまえ。特大の字で」
書いてやる、と約束した。書く日が来るなら、その現場は多分、洒落にならない規模の更地になっているだろうが。
彼女は手帳を仕舞うと、焚き火に薪を一本足して、ついでのように言った。
「ちなみに今日は四十九だった。旅は、いい。土地の魔力が毎日変わるから、飽きない」
「毎日変わる条件で四十九なら、大したもんじゃないのか、それは」
「……ふ、ふふん。分かってきたじゃないか、事務屋」
マントを翻して寝床に去っていく後ろ姿は、機嫌が良さそうだった。翻す必要は、今夜もなかった。
七日目の朝、地平線に、それは見えた。
最初は、山だと思った。朝靄の向こうに横たわる、灰色の稜線。近づくにつれ、稜線が不自然に真っ直ぐなことに気づき、やがて、それが人工物だと分かった。国境を塞ぐ、高さ二百メートルの、継ぎ目のない灰色の壁。雲が、壁の中腹に引っかかっていた。
四天王筆頭【鉄壁】ゴードンの要塞。魔王領への、唯一の門だった。
工程表を確認する。ここまで、予定より一日早い。だが、あの壁を見上げた瞬間、俺の中の何かが告げていた。――ここからの一日は、今までの七日より、長い。
次回「第26話 国境の壁」は、8月12日(水)18時30分更新です。




