第17話 レーヴェ、竜を泣かせる
前回:「第16話 監査vs粉飾」
巨竜の咆哮が、月光市場の大空洞を、びりびりと震わせた。
商館の窓が割れ、商人たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、屋台の果物が転がる。ドラゴの巨体は、目測で体長二十メートル。鋼色の鱗は松明の光を鈍く弾き、開いた顎の奥には、岩をも溶かすという竜の熱が、ちろちろと覗いていた。地下空洞で、やっていい姿では、断じてない。
「証拠隠滅に、市場ごと埋める気か! 全員、避難誘導! ミミックは非常口の開放! メルヴィナ、商人の避難はあんたの声が一番通る! ――そして、レーヴェ!!」
「――応ッ!!」
剣聖が、跳んだ。
言っておくが、今回、遠慮は要らない。相手は、罪の自覚があって逆上している横領犯だ。飢えた村も、失った翼も、隠された小麦もない。身の上に泣く要素は――ないはずだった。この時点では、俺も、そう思っていた。
レーヴェの剣は、今日も凄まじかった。吐き出された熱波を、剣圧で真っ二つに裂き、跳躍一つで竜の懐に潜り込み、逆鱗の横を峰で打ち、尾の薙ぎ払いを踏み台にして、巨体を市場の商館から引き剥がし、外周へ、外周へと誘導していく。人的被害、ゼロ。物的被害、最小。誘導しながら戦うという、討伐よりよほど高度な芸当を、彼女は涼しい顔でやってのけた。
俺はといえば、避難誘導の傍ら、いつもの実況の任にあった。
「竜、火炎吐息の予備動作! 喉が膨らんでる、東区画は退避完了か!? ――レーヴェ、東は空だ、そっちへ流せ!」
「――りょうかいっ!」
剣聖は熱波ごと竜の首を弾いて、吐息の軌道を無人の東区画へ逸らした。岩壁が半分溶けたが、被害はそれだけだ。壁は直せる。エルシーは避難の列の殿で転んだ老商人を治療し(「お代は後日、懺悔で」商魂)、ミラベルは「詠唱の許可を!」と叫び続け、俺は「地下だ馬鹿、生き埋めになる!」と却下し続けた。うちの戦場は、今日も、騒がしい。
三分で、巨竜は商館の棚から引き剥がされた。五分で、空洞の外周に追い詰められ、尻餅をつかされた。七分で、足を払われ、仰向けに、転がされた。二十メートルの竜が、である。
レーヴェは、その喉元に、剣先を、ぴたりと突きつけた。
そして――斬らなかった。代わりに、いつもの、あれが、始まった。
「――で?」
剣先はそのままに、彼女は、静かに聞いた。
「四万八千枚。あんた、**何に使った**」
「だ、黙れ……! 人間ごときが……!」
「言いな。あたしの目は誤魔化せないよ。あんたの鱗、金遣いの荒い竜の艶じゃない。酒焼けもしてない。博打打ちの爪の噛み癖もない。着てた服は月給ぶんの吊るしだった。――酒でも、博打でも、女でもない。じゃあ、何だ。四万八千枚は、どこにある」
巨竜は、黙秘した。十秒。二十秒。三十秒。剣聖の五感が、竜の心音と、呼吸と、視線の泳ぎ方を、読み続ける。そして、やがて、彼女は、ぽつりと、言った。
「……あんた。全部――**寝床に、敷いてるね**? 一枚も、使ってないね?」
鋼色の巨体が、びくり、と、大きく震えた。
図星だった。ドラゴは、観念したように、仰向けのまま、ぽつりぽつりと、語り出した。
竜族には、古い、古い習わしがある。寝床に敷き詰めた財宝の量と厚みこそが、竜の格。竜の見合いの席では、家柄より、腕より、まず「寝床の目録」を交換するのだという。厚い寝床は甲斐性の証、薄い寝床は――竜として、一人前と見なされない。
そしてドラゴは、経理の腕は本物でも、稼ぎは月給制の勤め人だった。寝床は、薄かった。百年で、九回、見合いを断られた。九回とも、目録を見た相手の、あの目。哀れみと、値踏みと、退屈の混じった、あの目。十回目の相手は、手紙のやり取りだけは、続いている。聡明で、字の綺麗な、山向こうの竜だという。その相手にだけは、「素敵な寝床ですのね」と言われたくて。ただ、それだけの、ために。
「使えるわけが、ないだろう……敷くための、金だ……一枚も、使うものか……厚さが……厚さだけが、竜の、誇りなんだ……」
「――**盗んだ金貨の上で寝て!!**」
レーヴェの一喝が、大空洞を、震わせた。
振り向いた俺は、見た。彼女は――泣いていた。ぼろぼろと、いつものように。だが、今日の涙は、いつもの同情の涙では、なかった。彼女は、泣きながら、真正面から、説教していた。
「盗んだ金貨の上で寝て、いい夢が、見られたのか!! 毎晩、背中がチクチクしなかったのか!! 十回目の見合いで、その目録を見せる時、あんた、胸を張れたのか!! 張れるわけないだろ、自分が一番知ってるんだから!! ……あんたの経理の腕は、本物だ! 三年間、あの女王の目を欺いて、この馬鹿でかい市場の帳簿を、裏で回し続けた腕だ! その腕で稼いだ、薄っぺらい寝床の方が――盗んだ四万八千枚より、**万倍、あったかいだろうが―――ッ!!**」
「う……うう……ううううぅぅ……」
体長二十メートルの巨竜が、地下空洞で、子供のように、泣き崩れた。竜の涙は大粒で、本当に大粒で、市場の側溝が、一時的に溢れた(後日、水害扱いで修繕費が計上された。うちの請求ではないことを祈る)。レーヴェは泣きじゃくる巨竜の鼻先に手を置いて、「よし。よく言えた」と、まるで子供を褒めるように、二度、叩いた。
あとの手仕舞いは、早かった。エルシーが進み出て、戦闘の生傷と、レーヴェの説教でついた心の傷(後者の方が深そうだった)を治療し、その治療代の懺悔で、隠し寝床の場所が、洗いざらい割れた。ダンジョン最深部の岩の裂け目から、金貨四万八千枚は、一枚残らず、回収された。本当に、一枚も使われていなかった。几帳面に、年代別に、敷き詰められていた。横領にすら、経理の几帳面さが出ていた。回収作業の間、ドラゴは人型に戻って、自分の寝床が運び出されるのを、捨てられる子犬のような目で見ていた。少しだけ、ほんの少しだけ、気の毒になった。罪は罪だが。
人型に戻ったドラゴは、メルヴィナの前で、床に額を、擦りつけた。
「……申し開きは、しません。処分は、いかようにも」
メルヴィナは、長いこと、黙っていた。処刑か。軍法会議か。市場の全員が、固唾を呑んで、女王の裁定を待った。彼女はやがて、扇の先で、ドラゴの顎を、くい、と上げさせた。
「一つだけ、聞くわ。……三年間、私の帳簿の裏で、この市場の実務を回してきたのは、あなたね。相場の微調整も、在庫の采配も、私の指示より半歩先に、いつも整っていた。あれは、全部、あなたの腕ね」
「……はい」
「――**腕は、買うわ。罪は、二十年かけて返しなさい**」
だが、金鱗の女王の口から出た「本題」は――まったく、別のことだった。
「……ねえ、事務屋」
「なんだ」
「三年よ。三年間、私は軍に叱られ続け、部下に抜かれ続け、それでも、気づけなかった。軍の受領記録さえ突き合わせれば一日で分かることを、『戦時の機密』だ何だと言われて、見られなかった。私の完璧な帳簿は、壁の内側でだけ、完璧だった。……その壁を、あなたたちは、半日で越えた」
彼女は、そろばん仕込みの扇を、ぱちん、と閉じた。そして、女王の顔で、にやりと笑った。
「――魔王軍にいるより。あなたたちと組んだ方が、**儲かるのでは、なくて**?」
次回「第18話 四天王(二人目)、起業する」は、8月4日(火)18時30分更新です。




