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第15話 地下市場の女王

前回:「第14話 ダンジョンは経営されている」

正装は、モルドの古着屋で揃えた。締めて銀貨十八枚。当初の言い値は三十枚だったが、エルシーが三軒を回って相見積もりを取り、「こちらのお店の先代は、教会に多額の寄進をされていた敬虔な方だったとか」と微笑んだ時点で、店主が勝手に値を下げた。値切りにすら信仰を使う。俺は隣で、ただ領収書を受け取る係だった。


 仕上がりは、存外、様になった。レーヴェは深緑のドレスの下に剣帯を仕込み(正装の定義に反する気がするが、本人が「丸腰の方が礼儀に反する」と言い張った。剣士の礼法は分からん)、エルシーは祭服の上等な方で済ませ、ミラベルは「正装=一番かっこいいローブ」という解釈で、普段より二割ほど房飾りの多い真紅を着てきた。まあ、いい。先方の指定は「正装」であって「常識」ではない。


 夜。地下五階への隠し階段は、ミミックが案内してくれた(四階の壁の一部が、彼の腹を経由する抜け道になっていた。金庫番が通用口を兼ねている。合理的だ)。


 長い螺旋階段を降り切った先に広がっていたのは――地下であることを忘れる、光の空間だった。


 大空洞の天井いっぱいに、月光のような柔らかい照明が灯っている(光る鉱石を敷き詰めているらしい)。石造りのアーケードには商館が軒を連ね、酒場からは弦楽の音。そして、行き交う人々を見て、俺たちは足を止めた。


 人間の商人と、角の生えた魔族の商人が、同じテーブルで、同じ酒を飲みながら、商談をしていた。


 掲示板には、相場が三列。人間側の王国通貨、魔王領の通貨、そしてこの市場独自の兌換相場。人間の織物商が魔族の鉱山主と握手し、魔族の香辛料商が人間の料理人に試供品を配っている。近くの屋台では、人間の親方と角の生えた職人が、一つの図面を挟んで「この鋼なら折れん」「値が折れんのだが」と丁々発止をやっていた。地上では戦争中の両陣営が、この地下でだけは、敵ではなく――**商売敵**として、共存していた。


「ねえ、リド」レーヴェが、小声で言った。「ここの人たち、みんな……いい顔してる」


「ああ。商売の顔だ。殺し合いの顔より、ずっと上等だよ」


「……闇市場、というより」俺は、呟いた。「中立市場、か」


「お目が高いこと」


 鈴を転がすような、しかし芯に金属の響きのある声が、空洞の最奥から届いた。


 月光を束ねたような、一段高い玉座。そこに、その女は、優雅に足を組んで座っていた。


 黄金の鱗を持つ、竜人だった。長い髪も金、切れ長の瞳も金、手にした扇も金。年の頃は――竜人の歳は読めないが、佇まいは、百戦錬磨の女主人のそれだった。扇をよく見ると、骨の間に小さな珠がずらりと並んでいる。そろばん仕込みの扇だった。武器が算盤の四天王。嫌な予感しかしない。


「魔王軍四天王が一柱、【金鱗】のメルヴィナ。この月光市場の主にして、軍の財布を預かる者。――ようこそ、いらっしゃい。噂のパーティ《かっこかり》。それと」


 金の瞳が、すっ、と細まり、俺を、正確に射抜いた。


「あなたが、例の『事務屋』ね。ヴァルガを退職させた、様式第一号。総務部のネビュラに頼んで、写しを取り寄せて、拝見したわ。第五項の、部下免責条項……ふふ。痺れた。**美しい書類は、美しい剣より、稀少よ**」


「どうも。書式に国境はないので」


 俺は、世辞を受け流して、本題に入った。この手の相手に、前置きは時間の無駄だ。


「単刀直入に聞く。この街の相場――満月ごとに、きっかり二割、呼吸をしてる。あんたが、させてるな」


「ええ、そうよ」


 あっさりと、女王は認めた。隠す気が、最初からない。彼女は扇を広げ、珠を、ぱちり、と一つ弾いた。


「ダンジョンの産出を管理し、出荷を調整し、相場を安定させる。上がった利ざやは、魔王軍の戦費に回す。人間の街の経済で、人間と戦うお金を作る。――美しいでしょう? 憎むなら、憎めばいいわ。でもね、事務屋さん。私が来る前のこの街を、調べてきたかしら。乱掘と暴落を三年ごとに繰り返して、そのたびに、鉱夫の家族が飢えてた。今は? ――**誰も、飢えてない**。相場が安定してるから、鉱夫は月給で暮らせて、子供は学校に行ける。搾取と統治は、紙一重よ。私は、統治のつもり」


 厄介なことに、それは、事実らしかった。この三日、街を歩いた俺の目にも、モルドは、健全に映った。物価は安定し、市場に活気があり、飢えた顔がない。倫理はともかく――経営としては、一流だ。


「さて、監査官さん」


 メルヴィナは、扇を閉じ、玉座の脇の卓から、一枚の証書を取り上げて、俺の前に、滑らせて寄越した。


「提案があるの。あなたたちの債権、九百六十枚。カレンス商会から、私が今夜のうちに買い取って――**この場で、帳消しに**してあげる。条件は、一つだけ。監査をやめて、何も見なかったことにして、明日の朝一番の馬車で、お帰りなさい」


 背後で、仲間たちが、息を呑むのが分かった。九百六十枚。俺たちの首を、出会いの日からずっと絞め続けている、あの数字が。ペン一本で、消える。


 正直に書いておく。俺の手は、一瞬、証書に伸びかけた。九百六十枚だ。うちの日銭商売で返すなら、あと何年かかるか、計算したくもない数字だ。返済計画表・第三版の、あの遠い完済日が、頭をよぎった。だが――伸ばしかけた手の先で、数字が、引っかかった。監査官の性というやつだ。合わない数字を見つけたまま、帳簿を閉じることが、俺には、できない。


 俺は、証書を手に取った。透かしも、印章も、本物だった。署名欄だけが、空白の。


 ――そして、俺はそれを、卓の脇に、そっと置いた。仲間たちの顔は、見なかった。見たら、揺れる。


「魅力的だ。九百六十枚ぶん、まるごと魅力的だ。……だが、署名の前に、一つだけ、確認させてくれ。あんた、送金してるんだよな? この市場の上がりを、毎月、魔王軍に」


「当然でしょう。それが私の職務よ」


「なら――おかしいんだ」


 俺は、この三日で写し取った取引記録の束を、卓に置いた。


「街の取引量から逆算すると、この市場の利ざやは、月に金貨およそ二千枚。だが、だ。魔王軍の実情を、俺は少しだけ知ってる。ヴァルガの部下たちは、故郷の村の食糧を『自分の給金』で買っていた。軍の装備更新は、三年、止まってる。総務部は優秀なのに、予算の話になると歯切れが悪い。――軍の懐は、どこからどう見ても、カラカラだ。あんたが毎月送ってる二千枚は、じゃあ、**どこに消えてる**?」


 金の瞳が――初めて、揺れた。


「……そんなはずは、ないわ。送金は、毎月、規定の経路で、規定通りに」


「規定通りに『送った』ことと、規定通りに『届いた』ことは、別の話だ。受付で五年、その二つの違いで泣く人間を、何百人も見てきた。仕送りが届かない親、届いたのに届いてないと言われる子。金の流れの事故は、いつも『送った』と『届いた』の間で起きる」


 メルヴィナの扇が、止まっていた。珠を弾く指が、止まっていた。四天王の、軍の財布を預かる女の頭の中で、俺と同じ計算が、走っているのが分かった。もし、俺の指摘が正しいなら。彼女は三年間、抜かれ続けていたことになる。彼女の誇りである、あの完璧な帳簿の、すぐ外側で。


 俺は、正装の内ポケットから、羽ペンを、すらりと抜いた。剣士の、抜刀のように。


「――三期分の帳簿を出せ。**全部だ**」

次回「第16話 監査vs粉飾」は、8月2日(日)18時30分更新です。

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