第17話 一緒に黙る
前回:「第16話 原初の祭壇」
◆この夜のことは、あたし――レーヴェが、話す。
帰り道の野営は、また、荒野の中だった。
あたしは、眠れなかった。二度目の荒野は、一度目より、少しだけましだった。花の場所を知っているから。それでも、枯木の海の囁きは、あたしの耳に、絶え間なく流れ込んでくる。ごめん。どうして。待ってたのに。万年分の、行き場のない言葉たちが。
寝床を抜け出して、火の番でもしようと立ち上がった時、見つけた。
野営の火の届かない、荒野の縁。佇む夜が、一人で、立っていた。眠らないのだ、この人は。万年、夜ごと、ここで。世界のどこかで今夜も破られていく約束たちを、聞き届けるために。
あたしは、しばらく、その背中を見ていた。
背中って、正直だ。三年間、いろんな背中を見てきた。ヴァルガの、翼の欠けてた頃の背中。ゴードンの、三百年立ちっぱなしの背中。シアさんの、灯りを磨く背中。……この人の背中は、そのどれとも違って、そのどれとも、同じだった。誰かのために、長すぎる時間、同じ場所に立ち続けた者の背中。うちが三部作かけて出会ってきた背中の、これが多分、大元なんだ。
傾聴は、効かなかった。あの人の心は、深すぎる湖で、あたしの目は底に届かない。エルシーは「満杯」だと言った。万年分の他人の言葉で満杯で、自分の言葉の入る場所がない、と。
……ならさ。
これ以上、何かを入れようとするのが、そもそも、間違いなんじゃないか。聞き出すのも、注ぎ込むのも、満杯の器には、全部、暴力だ。あたしにできることが、もし一つでもあるなら、それは――
歩き出す前に、一度だけ、迷った。あたしのやろうとしてることは、正しいのか。万年の夜勤の邪魔じゃないのか。……でも、思い出したんだ。灯台の夜。あの人も、最初は「帰んな」って言った。言ったけど、荒れる夜に人を追い返すのは名折れだって、扉を開けた。夜勤の人ってのは、そういうもんだ。隣に来る奴を、無下にはできない。だから、行く。無下にされたら、その時は、大人しく帰る。
あたしは、歩いて行って、シジマの隣に、腰を下ろした。
「……隣、いい?」
返事は、なかった。追い払われも、しなかった。だから、いいということにした。世の中の大事な許可の何割かは、こうやって、沈黙の形で下りる。
それから、あたしは、黙った。
何も聞かなかった。何も話さなかった。泣き落としの構えも、傾聴の呼吸も、全部、鞘に納めた。代わりに――あたしは、五感を、開いた。荒野に向かって、全開に。昼間、あんなに苦しかった枯木の海の囁きを、遮らずに、逃げずに、全部、この耳で受けた。
この人が、万年、毎晩、やっていることを。一晩だけ、隣で。
……なんで、って聞かれたら、うまく答えられない。作戦じゃない。交渉の手でもない。ただ、剣の稽古と同じなんだ。相手の見てる景色を知らないまま、相手と向き合う方法を、あたしは知らない。ジグの剣を受けて、ジグが分かった。ゴードンの三百年を聞いて、ゴードンが分かった。この人の万年は、聞けない。なら、隣で、浴びるしかない。
最初の一本を受けた瞬間、逃げ出しそうになる体を、座り方で縛った。道場の正座の型。ばあちゃん師匠の教え。「聞く覚悟が決まらない時は、先に体の形を決めな。心は、体の形に、後から追いつくから」。
……きつかった。正直に言う。想像の百倍、きつかった。破られた約束というのは、破られた側の痛みと、破った側の後悔が、縒り合わさった声なんだ。どっちも本物で、どっちも行き場がない。一本聞くだけで胸が軋むそれが、地平線の向こうまで、ある。一時間で、あたしの頬は、勝手に濡れ始めた。声は、出さなかった。嗚咽は、この夜には、いらない。あたしの泣き声で、この人の万年を、慰めた気になっちゃいけない。涙は勝手に流れるに任せて、あたしはただ、聞き続けた。隣の沈黙と、同じ姿勢で。
途中、一度だけ、心が折れそうになった。ひときわ古い、子供の声の囁きを、拾ってしまった時だ。逃げ出したくなった。逃げても、誰も責めない。あたしは客で、この荒野は、あたしの職場じゃない。……でも、隣の人には、逃げる先が、万年、なかったんだ。あたしは座り直した。剣聖の胆力の使い道として、今夜のこれは、多分、生涯で一番、正しい。
時々、荒野の遠くで、新しい枯木の生える気配がした。夜のうちにも、世界のどこかで、約束は破られ続けている。そのたび、隣の「顔」が、そちらへ向く。夜勤の巡回。万年目の、今夜の分。
夜半、気づいたことがある。
この人は、聞き流していない。一本、一本、ちゃんと受けている。囁きが特に軋んだ木の方角へ、佇む夜の「顔」が、微かに、向くのだ。そこにいるよ、聞いているよ、というように。万年。毎晩。一本ずつ。誰にも知られず、礼も言われず、それでも一本も、聞き流さずに。
……ばかやろう。
あたしは、声に出さずに、思った。ばかやろう。優しすぎるだろ、そんなの。
夜のいちばん深い時刻に、囁きの波が、一度だけ、凪いだ。世界の寝静まる時間帯。破約も、眠るらしい。その短い凪の間、隣の沈黙が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。万年の夜勤の、唯一の、休憩時間。あたしはその凪の間だけ、目を閉じることを、自分に許した。隣で誰かが起きててくれる時だけ、人は目を閉じられる。この人には万年、その相手がいなかったんだ。……ちがう。月に一度だけ、いたのか。灰色の、あの人が。
夜が、白み始めた。
荒野の地平線に、色のない夜明けが来て、囁きが、昼の静けさに沈んでいく。あたしは、固まった体を伸ばした。一晩。たった一晩だ。万年の、たった一晩ぶん。それでも、隣に座る前のあたしと、今のあたしは、この人の見ている景色を、知っている度合いが、違う。
隣の佇む夜は、夜明けの荒野を、いつもと同じ静けさで見ていた。一晩、あたしがいたことについて、何の反応もない。……ように、見えた。でも、あたしは夜通し、隣にいたから、分かる。夜半の凪の後から、この人の沈黙の質が、ほんの少し、変わってた。壁の沈黙じゃなくて、窓の沈黙に。ほんの少しだけ、開いた窓の。
立ち上がろうとした時――衣擦れよりも静かな気配が、動いた。
藍色の袖から、一枚の紙が、あたしの膝の上に、ひらりと差し出された。
白紙じゃ、なかった。
紙の真ん中に、たった一文字。墨の色が、万年分、深かった。
『疲』
……知ってる字だった。読める字だった。なのに、初めて見る字みたいに、深かった。万年、他人の言葉だけを受けてきた人の、最初の自分の言葉が、これだ。「憎」でも「終」でもなく、「疲」。閉門派の白紙二百枚――じゃない、白紙一枚の、これが本文だったんだ。
あたしは、その一文字を、長いこと、見ていた。それから、顔を上げた。佇む夜は、もう、いつもの静けさに戻って、夜明けの荒野を見ていた。
万年で、初めて、この人が、自分のことを、書いた。
たった、一文字。
でも、湖の底から、一文字。
あたしは、紙を、両手で受け取り直して、深く、頭を下げた。言葉は、言わなかった。この一文字への返事に足る言葉を、あたしは持ってない。持ってないことを、ごまかさないのが、今のあたしにできる、精一杯の礼儀だった。
次回「第18話 万年の疲れ」は、11月4日(水)18時30分更新です。




