第16話 原初の祭壇
前回:「第15話 お世辞の霧」
「沼の底に、遺跡……? 名代さん、あれは」
「……分かりません。地図にも、記録にも、ない構造物です。軽口の沼は深く、底を見た者は」
その時、俺たちの脇を、佇む夜が、静かに通り過ぎた。
シジマは沼の縁に立ち、藍色の袖を、水面に向けて、ゆっくりと掲げた。
――沼が、黙った。
浮かんでは沈んでいた『あとでやる』たちが、ぴたりと静まり、水面が凪ぎ、そして――言葉の水が、左右に、静かに割れていった。沈黙の大精霊の前では、軽口は、口を噤む。割れた沼の底へ、乾いた石の道が、現れた。
「……あの人、こういうこと、できたんだ」
「万年の重鎮だぞ。できない方がおかしい」
沼底への石の道を、俺たちは一列で降りた。左右の「言葉の水」の壁は、鈍色に揺れて、時々、壁の中の『行けたら行く』がこちらを覗いた。気持ちのいい道行きではない。だが、先頭の藍色が歩く限り、壁は、崩れなかった。沈黙が、軽口の海を、割って支えている。この構図を、俺は生涯、忘れないと思う。
軽口の沼の底に、原初の祭壇。皮肉な配置だと思ったが、名代の精霊の推測は、逆だった。「……守られたのだと、思います。軽い言葉の底なら、誰も、掘り返しに来ませんので」。一番軽い言葉の沼が、一番重い祈りの場を、万年、匿ってきた。世界の設計は、油断ならない上に、時々、粋である。
沼の底の遺跡は、円形の石の祭壇だった。苔むした石柱、中央の祭壇石、そして周囲をぐるりと囲む碑文。祭壇の石は、大書庫のどの棚より、原本の間の台座より、古かった。触れると、ひやりとして、それから、じんわりと、あたたかい。古い竈の石の、あの温度だった。ミラベルが祭壇に駆け寄り、碑文に鼻先がつくほど顔を近づけ――叫んだ。
「――これだ!! 書庫の巻物と同じ記号! 原初の詠唱! しかも巻物より完全な形で残ってる! ここ、契約より前の……人が、世界そのものに語りかけてた時代の、祈りの場だ!!」
法務精霊の翻訳補助で、碑文は読み解かれた。刻まれていたのは、一篇の長い長い祈り。久遠の闇、最初の光、最初の海、最初の朝――そして、末尾は、問いで、開いていた。
『――今、すべての聞く者に、問う。』
「『黎明』の、原型……」
「うん。間違いない。私の『黎明』は、この祈りの、万年後の子孫だ。ということはだよ、リド。『黎明』の書き手は、ここを知ってた。この祭壇か、この祈りの伝承を。……『黎明』が問いで終わる理由も、これで解けた。原初の祈りが、そういう形だったんだ。世界に語りかけて、世界の返事を、待つ形」
誰が『黎明』を書いたのか、という謎が、また一段、深く、そして一段、この世界に近くなった。
ミラベルは、碑文を一周、ゆっくりと歩いた。指先で記号を一つずつなぞり、手帳に書き写し、時々、目を閉じて、口の中で音を確かめた。詠唱馬鹿の、これが巡礼の作法だった。一周に、たっぷり半刻。誰も急かさなかった。シジマですら、待った。祭壇の主賓が誰なのか、この場の全員が、分かっていたからだ。万年ぶりの参拝客、それも――この祈りの、現役の使い手である。それから祭壇の中央に立ち、俺たちを見て、言った。
「……唱えて、いいかな。ここで。この、元祖のやつを。所要、たぶん十五分。……なんとなく、だけど。ここでは、唱えなきゃいけない気がする。祭壇ってさ、祈られるための場所でしょ。万年、祈られてない祭壇って――多分、この世で一番、腹を空かせてる場所だ」
視線が、自然と、シジマに集まった。ここは、閉門派の案内する視察地だ。祭壇の使用の可否は、あの藍色が握っている。佇む夜は、しばらく動かず、それから――袖を、静かに、祭壇の方へ、差し伸べた。どうぞ、の身振り。荒野の小道を示した時と、同じ形で。ただし今度のは、心なしか、深かった。
止める理由は、なかった。ただ、俺は時計係として、一つだけ確認した。「初見の詠唱だぞ。文言は」「もう、入ってる」彼女は自分のこめかみを、指で叩いた。「碑文を一周した時に。……ねえリド、変なこと言うよ。この祈り、初めて読むのに、懐かしいんだ。詠唱を志した日から、ずっと探してた実家を、見つけたみたいな」。詠唱馬鹿が万年かけて家系図の根に還る日の顔を、俺は隣で見ていた。いい顔だった。
原初の詠唱が、万年ぶりに、祭壇に響いた。
それは『黎明』より素朴で、拙くて、そして、切実だった。契約もなく、精霊魔法もなく、誓いの力もなかった時代の人間が、ただ言葉を尽くして、十五分かけて、世界に「どうか」と頼んだ、その原液。ミラベルの声が三分を過ぎた頃、変化が、起きた。
沼の縁に、霧の彼方に、荒野の方角に――光が、ぽつ、ぽつ、と灯り始めたのだ。
精霊だった。それも、見たことのないほど古い。輪郭が半ば風景に溶けた、最古層の精霊たちが、一体、また一体と、祭壇の周りに、集まってくる。名代の精霊が、掠れた声で言った。
「……契約以前を、知る方々です。もう何千年も、誰の前にも出てこられなかった……祈りの声を、覚えて、いらしたんだ」
古い精霊たちは、詠唱を、浴びていた。糧として食べるのではなく、日向ぼっこのように、浴びていた。万年前――頼まれる側ではなく、語りかけられる側だった時代の、声を。ベッシが、そのうちの一体に、恐る恐る近づき、深々と、体を平たくした。最古層の精霊は、若い探し番の頭のあたりを、溶けかけた輪郭の先で、そっと、撫でた。世代差、数千年の挨拶だった。名代の精霊は、途中から、堂々と泣いていた。「私たちの世代は……この方々を、伝説だと思っていました。生きて、いらしたんだ。ずっと、この近くに」。
十五分。ミラベルは、唱えきった。初見の祈りを、一節も噛まずに。最後の問いの一節に、古い精霊たちが、光の明滅で、いっせいに応えた。祭壇が、淡く、暖かく、灯った。万年ぶりに灯った祭壇の火は、大きくはなかった。竈の残り火ほどの、慎ましい灯。だが、その灯りの中で、最古層の精霊たちの溶けかけた輪郭が、ほんの少し、はっきりした。語りかけられることは、精霊にとって、糧より深い何かなのだ。
詠唱を終えたミラベルは、肩で息をしながら、灯った祭壇を見上げて、ぽつりと言った。
「……ねえ、みんな。分かっちゃった。契約はさ――始まりじゃ、ないんだ」
彼女は、碑文を、祭壇を、集まった古い精霊たちを、手で示した。
「契約より前に、対話があった。長くて、不便で、でも、ちゃんとあった。契約は、それを速くしただけ。……契約は、始まりじゃない。途中経過だ。だったらさ、更新っていうのは、原点に戻ることじゃなくて――対話の、続きを書くことなんだよ」
俺は、その言葉を、手帳に書き留めた。新契約の前文に使える。いや、使う。三十日、机の上で届かなかった「あと一段」の部品が、沼の底の祭壇に、落ちていた。現場に出れば答えが落ちている。窓口の鉄則は、異界でも有効だった。
そして、ふと、視線を感じて、振り返った。
祭壇の外周の、一番古い石柱の傍らに、シジマが、立っていた。
その佇まいが――違った。俺たちに向ける「案内人」の静けさでも、荒野で見た「職務」の静けさでもない。それは、遠い場所を見る者の、立ち方だった。祭壇の灯りを、古い精霊たちを、まるで――懐かしいものを見る者の、立ち方だった。
次回「第17話 一緒に黙る」は、11月3日(火)18時30分更新です。




