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第15話 お世辞の霧

前回:「第14話 荒野の花」

◆滞在十七日目。視察二箇所目、「お世辞の霧」。


 荒野の重さの後で、正直、少し油断していた。「お世辞の霧」という地名の、間の抜けた響きにも。


 霧の手前で、名代の精霊が、防備を確認した。「口を閉じていれば、多少はましです。ただし、完全には防げません。霧は、口の堅い方ほど、面白がって狙います」。面白がる霧。世界の根源の隣に、こんな悪戯な地形があるのだから、世界の設計は、油断ならない。


 油断は、三歩で崩壊した。


 乳白色の霧に足を踏み入れた瞬間、俺の口が、勝手に動いた。


 言っておくが、俺は口の堅さには自信があった。窓口五年、客の前で本音を漏らしたことは一度もない。その自負ごと、霧は三歩で刈り取った。


「――ミラベルの詠唱は、この世の音楽の最高峰だ!」


「えっ!? あ、ありがとう!? ……じゃなくて! リドの書式は宇宙一! 全宇宙の役所が跪くべき! 読点の一つ一つが真珠!」


「真珠!?」


「今の、霧です! 俺のも霧です!」


「知ってる! でも止まらな――レーヴェの剣は銀河を斬れる!! 鞘の艶は月光の結晶!!」


「エルシーの聖印は星より尊い!! ひび込みで骨董価値が青天井!! ……っ、あたし今、何を!?」


「後半、微妙に生々しいですね!?」


 これが、お世辞の霧だった。世界中で吐かれた心にもない賛辞、社交辞令、空世辞――精霊の糧にならない「薄い言葉」が流れ着いて溜まる場所。霧の中では、本心と無関係に、口から賛辞が湧いて止まらない。しかも厄介なことに、褒められた側は、霧のお世辞と分かっていても、まんざらでもない顔になる。人間の造りが、そうなっているのだ。


 被害は、拡大した。エルシーまでもが「リドさんの帳簿は聖典に匹敵――違います今のは霧です神への謝罪は後でします!」と珍しく取り乱し、俺は俺で「エルシーの利息計算は天使の算術――霧だ!」と応酬してしまった。互いの職能を褒め合う地獄である。しかも質が悪いことに、霧のお世辞には、二割ほど、本音が混ざる。どの二割かは、言った本人にも分からない。分からないまま、顔だけが熱くなる。


「言祝様の光は太陽より眩しい!」「名代殿の羽は虹より美麗!」「ベッシの体印は芸術!」


 精霊たちまで巻き込まれ、褒め合いの無間地獄が完成した。ベッシは霧のお世辞を一口味見して、まずさに涙目(精霊は薄い言葉を「まずい」と感じるらしい。三年、極上のインクで舌の肥えた検査員には、拷問の味だったろう)になり、名代の精霊が青い顔で警告した。


「な、長居は禁物です! 霧に浸かり続けると、お世辞と本心の区別が、こちら側から薄れて――本気の言葉まで、軽くなります! 霧に呑まれて出てこられなくなった旅人は、皆、最後には『何を言っても同じ』と呟くようになると――」


 笑い話が、一瞬で怪談になった。何を言っても同じ。それは、言葉の世界における、たぶん一番深い遭難だった。


「脱出路は!」


「霧が濃くて、方角が――ああっ、リド様の危機管理は歴史に輝く!」


「案内が霧に食われた!!」


「ちなみにこの状況、記録には、どう書くんです!?」


「事実の通りだ! 『視察団、霧中にて相互賛辞の応酬に陥る。以下、賛辞の記録は割愛』!」


「割愛で正解です!!」


 霧の恐ろしさは、笑える見た目の底にあった。荒野は、言葉の重さの墓場だ。だがこの霧は、言葉の軽さの製造元だった。ここで薄まった言葉が世界に還流し、また薄い言葉を作る。インクの川が千年で三割薄くなった、その源流の一つが、この乳白色なのだ。笑いながら、背筋だけが、冷えていた。


 唯一、霧の効かない者が、二人いた。


 一人は、シジマ。沈黙の大精霊には、霧は一言も、言わせられなかった。お世辞の霧すら、あの沈黙をこじ開けられないのだ。佇む夜は、褒め合い地獄の中心で、いっそ神々しいほど、黙っていた。


 そしてもう一人は――霧に入る前から自分を褒め続けていた女だった。


「ふふ、当然だね! 私の詠唱が最高峰なのは霧に言われるまでもない、通常運転の事実!」


「「「それ霧じゃなくて素だ!!」」」


「――だが、脱出の鍵は、その素の私が握っている! いいかい、お世辞は『心にもない言葉』。なら、汚染されないのは『心しかない言葉』――つまり、詠唱だ! 三年間、心にもない詠唱を一度もしたことがない女の言葉を、信じたまえ!」


 妙な信用の担保だが、事実、彼女の詠唱に本気でなかった一節は、百九回の記録のどこにもない。担保としては、大陸有数の優良物件である。


 ミラベルは、霧の中央で、両手を掲げた。


「短縮版『終焉』、行くよ! 全員、私の声を命綱にしな! 詠唱は逸れない、揺れない、嘘をつかない――ついてこれない言葉は、置いていく!」


「霧の中で詠唱して、暴発したら」


「しない。霧ごときに私の詠唱は揺らせない――って言いたいところだけど、正確に言うね。九分五十一秒、私が本気の言葉だけを喋り続ける。霧は、本気の言葉には、混ざれない。それだけの理屈! 実証は、これから!」


 実証主義の魔女は、こういう時、一番頼りになる。


「詠唱の的は!」


「的は無し! 空に全部『逃がす』! この霧で撃つ先なんて選べないからね! 純粋に、声だけ使う! 詠唱の、道しるべとしての初仕事だ!」


 九分五十一秒の詠唱が、始まった。


 効果は、劇的だった。本気しか含まない言葉の奔流は、霧の中で、一本の光る綱のように通った。霧は、詠唱の周りだけ、近寄れずに渦を巻いた。乳白色の海に、九分五十一秒分の、澄んだ水路が引かれていく。俺たちは詠唱の声を頼りに列を組み、湧き上がるお世辞を(「ミラベルの声は天上の――今のは霧! 霧です!」)垂れ流しながら、一歩ずつ、霧を横断した。途中、俺は妙な感慨に打たれていた。かつて「長すぎる」と笑われた詠唱が、いま、九分五十一秒の長さそのもので、七人と一匹の命綱になっている。長い言葉は、霧に食われない。本気の言葉は、薄まらない。閉門派に見せたい光景だった――いや、先頭で、見ていたか。あの藍色は。


 詠唱が完唱を迎え、放たれた魔力が例によって千々に「逃がされ」た時、その風圧が、視界の霧を、ぶわりと払った。


 霧を抜けた俺たちは、しばらく、無言で座り込んだ。誰も、互いの目を見なかった。霧の中で吐き合った賛辞の、どの二割が本音だったのか、全員が全員のを、考えないようにしていたからである。沈黙を破ったのはレーヴェで、「……ま、悪口の霧じゃなくて、よかったね」と言った。名言だった。全員、深く頷いて、この件は帳簿ごと封印された。


 霧の切れ目の先に、次の視察地が、広がっていた。


 ――軽口の沼。


 鈍色の水面(水ではない。言葉だ)に、無数の言い回しが、浮かんでは、沈んでいく。『あとでやる』『今度飲もう』『近いうちに』『検討します』『行けたら行く』。言った端から忘れられる軽い言葉たちの、終の棲家。覗き込んだ全員が、一様に、気まずい顔になった。心当たりのない者が、いなかったからである。俺の『前向きに検討します』も、どこかに浮いているはずだった。


 そして、その鈍色の水面の、はるか底に。


 何かが、光っていた。石造りの、古い、古い構造物が。

次回「第16話 原初の祭壇」は、11月2日(月)18時30分更新です。

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