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第14話 荒野の花

前回:「第13話 破約の荒野」

一番近い花のところまで、俺たちは道を外れて歩いた。


 傾いだ枯木の根元に、白い小さな花が、三輪。枯木は枯木のままだ。生き返ってはいない。だが、その根元の花は、荒野のどの色より、鮮やかに、生きていた。


「……これは?」


 問いに答えたのは、推進派の名代の若い精霊だった。


「――『果たされ直した約束』の花です。荒野で、私たちが一番、お見せしたかったものです」


「果たされ、直した?」


 聞き慣れない言い回しだった。破られた、でも、守られた、でもない、三つ目の区分。


 名代の声が、少しだけ、弾んでいた。荒野に入ってから初めての、弾んだ声だった。


「はい。破られた約束は、枯木になります。ですが……約束の物語は、破られた瞬間に、終わるとは限りません。破った者が、何年後かに、償いを果たす。壊れた言葉を、別の形で、拾い直す。……そうして約束が『果たされ直された』時、枯木の根元に、花が咲くのです」


 精霊は、目の前の枯木に、そっと手をかざした。囁きが、聞こえた。


『――明日、必ず返すから。』


「この方は、返せませんでした。夜逃げをして、十年。……ですが十一年目に、戻ってきたのです。倍にして返し、頭を下げて。枯木は、枯木のまま。破った事実は消えません。ですが、根元に――ほら、三輪」


 花の囁きは、枯木の囁きと、聞こえ方が違った。枯木は「破られた瞬間」を囁く。花は――「果たされ直した瞬間」を、囁くのだ。十一年目の男の花に、レーヴェが触れた。聞こえたのは、しわがれた声だった。『……遅くなった。倍にして、持ってきた。……遅く、なった』。謝罪の声なのに、囁きの底が、あたたかい。破った男の十一年と、待った側の十一年が、あの三輪に、両方、咲いている。


 俺たちは、それから道々、花を探して歩いた。花には花の、囁きがあった。


 俺の見つけた一輪は、商いの木の根元だった。『この店は、潰しません』。潰れたのだ、その店は。だが花の囁きは、こう続いた。『――倅が、同じ場所に、店を出しました』。潰した約束を、次の代が、拾い直した。契約書の連帯保証より、よほど確かな相続が、そこに咲いていた。


 喧嘩別れの『もう知らない!』の根元には、二十年後の仲直りの花。『一生、大事にする』を守れず手放した形見の根元には、探し続けて買い戻した日の花。そして――一本の古い枯木の根元に、毎年一輪ずつ増えているという、花の列があった。囁きは、幼い声だった。


『――いってきます!』


「この子は、いってきますを言って、帰れなかった子です」精霊の声は、静かだった。静かに、続けた。「……そして、この花は。残された家族が、あの日から毎朝、空の椅子に向かって『いってらっしゃい』を言い続けている、その毎朝が、一年ごとに、一輪」


 レーヴェが、声を殺して泣いた。今度の涙は、荒野に打ちのめされた涙とは、違う涙だった。彼女は毎年一輪の花の列を、端から端まで、指を触れずに、目で数えた。十七輪。十七年分の、毎朝の「いってらっしゃい」。数え終えて、彼女は言った。「……この花、絶対、枯らしちゃだめだ。この荒野ごと。閉門派の人たちが枯木を立たせ続けてる理由、あたし、いま、ぜんぶ分かった」。枯木を捨てれば、根元の花も、捨てることになる。九分九厘の絶望を保存しなければ、一厘の希望も、保存できないのだ。


「……破約は」俺は、気づいたら、口に出していた。「約束の、死じゃないのか。……途中経過、なのか」


「花になれる破約は、ほんの一握りです」名代の精霊は、正直だった。「荒野の九分九厘は、枯木のまま朽ちていきます。ですが――ゼロでは、ない。それだけは、確かです。そして、これは推進派の若造の、身贔屓な観測ですが……この百年、花は、少しずつ、増えています。人間界で『やり直す』という考えが、広まり始めているのだと、私たちは、読んでいます」


 この百年で、花が増えている。閉門派の「川が薄くなった」と、推進派の「花が増えた」。二つの観測は、多分、両方とも正しい。言葉は軽くなり、同時に、やり直しは増えた。人間というのは、そういう、帳尻の合わない生き物なのだ。新契約は、その帳尻の合わなさごと、引き受ける紙でなければならない。


 名代の精霊は、それから、少しだけ、自分の話をした。彼がこの視察に志願した本当の理由。幼い頃、世話番の古老に、この花を見せてもらったことがあるのだという。「花の咲く瞬間を、一度だけ、見ました。枯木の根元に、ぽ、と。……あの一瞬のために、閉門派の方々は万年、枯木を立たせ続けているのだと、後で知りました。花の咲かない木を、九分九厘と知りながら。……私はあの日から、両派の争いが、争いに見えなくなったのです。どちらも、約束というものを、諦めきれない者たちの、二つの姿勢に見えて」


 両派の争いが、争いではなく、二つの姿勢。若い精霊の見立ては、俺の対照表のどの行より、本質を突いていた。推進派は、花の咲く可能性に賭ける。閉門派は、枯木の総量から目を逸らさない。どちらも、この荒野の住人だ。どちらの言い分にも、この荒野の分だけの、根拠がある。……俺の新契約は、この二つの姿勢の、両方が署名できる紙でなければならない。要件が、また一段、明確になった。明確になるほど、難しくなる要件というのも、珍しい。


 その晩の野営で、俺は花の数の聞き取りをした。名代の精霊の記憶にある限りで、花の「咲きやすい」条件を洗うためだ。答えは、意外なほど明快だった。「破った側が、破った事実を、忘れなかった場合です。忘れなかった破約だけが、いつか、果たされ直す機会を掴む。……荒野の一番の敵は、破約ではありません。忘却です」。忘れなかった破約だけが、花になれる。俺は手帳に太字で書いた。この一行は、条文になる。


 その日の野営から、エルシーが、新しい仕事を始めた。


 夕餉の後、彼女は一人、近くの枯木のもとへ歩いて行き、その根元に膝をつき、聖印を――ひびの入ったそれを――胸に当てて、囁きに、耳を傾け始めたのだ。


「何をしてるんだ?」


「……聞き届けを。破られた約束には、破った側の言い訳と、後悔が、残留思念のように絡みついています。誰にも聞かれないまま、万年。……罪を軽くすることは、私にはできません。でも、聞き届けることは、できます。懺悔とは、そういうものですので」


 彼女は一本、また一本と、枯木を回った。聞き届けられた木は、生き返りはしない。花も咲かない。ただ――囁きの軋んだ響きが、ほんの少しだけ、和らぐのだ。万年張り詰めていた声が、息を、吐くように。


 夜が更けても、彼女は続けた。回復所の閉店時間を、とうに過ぎても。俺は途中から、灯り持ちとして付き合った。手伝えることが、それしかなかった。聖女の聞き届けは、一本につき、数分。荒野の総量を思えば、海をスプーンで掬う作業だ。それでも彼女は、掬った。「今夜、届いた分は、今夜、確かに届きましたので」。掬えた分を数える帳簿の付け方を、この人は、誰より知っているのだった。


 そして俺は、見た。


 野営の火の届かない闇の中、佇む夜が――シジマが、身じろぎもせず、エルシーの供養を、じっと、見つめていた。


 万年、たった独りでやってきた自分の仕事を、初めて、隣でやる者を見る目で。

次回「第15話 お世辞の霧」は、11月1日(日)18時30分更新です。

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