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第13話 破約の荒野

前回:「第12話 荒野の入口」

◆記録係・リド。滞在十五日目。


 朝、荒野に入る前に、シジマの使いの精霊から、注意書きが配られた。閉門派の几帳面さは、こういうところに出る。曰く。『一、枯木に触れれば、最後の言葉が聞こえる。触れるかどうかは、各自の自由。二、囁きに、応えぬこと。応えても、届かない。届かないことは、聞く者の傷になる。三、走らぬこと。荒野で走る者は、大抵、逃げている。逃げる足音は、枯木たちを、悲しませる』。……三箇条とも、万年の運用でしか書けない条文だった。俺は三条目を、二度、読んだ。


 枯木の海の中の道は、細く、長く、そして、うるさかった。


 音がする、という意味ではない。荒野は静かだ。風すら、言葉を運ばない。だが、枯木の一本一本が――囁くのだ。触れると、聞こえる。その約束が破られた瞬間の、最後の言葉が。


 名代の精霊の説明によれば、荒野には、緩やかな区画があるという。入口に近いのは、新しい枯木。奥へ行くほど、古い。最奥には、契約直後の時代の――万年物の枯木が、まだ立っているそうだ。閉門派の世話番たちが、朽ちさせずに、立たせ続けているから。視察の道は、新しい区画を抜けて、古い区画の縁を回る行程だった。つまり俺たちは、人間の破約の歴史を、新しい方から遡って歩くことになる。


 最初に触れてしまったのは、好奇心の女王、ミラベルだった。道端の小さな枯木に、ひょいと指を伸ばして。


『――明日、必ず返すから。』


 微かな、男の声。それきり。ミラベルは指を離し、その木の細さと、傾き方を、しばらく見ていた。それから、何も言わずに、俺たちの列に戻った。あのミラベルが、何も言わなかった。


 次の一本には、俺がうっかり肩を触れた。


『――大人になったら、迎えに来る。』


 子供の声だった。言った側が、子供だったのだ。大人になる途中で、あの約束は、どこへ消えたのだろう。


 その次は、道が狭くて避けられなかった。


『――もう二度と、しない。誓う。』


 その声には、聞き覚えのある種類の疲れがあった。何度目かの「二度と」なのだ、あれは。誓う声が、誓い慣れている。窓口で、同じ声を何度も聞いた。同じ約束を何度も破る人の、それでも毎回、半分だけ本気の声。半分の本気でも、木は生える。生えて、枯れる。半分の本気の分だけの、細い木が。


 破られた瞬間の言葉、というのが、残酷だった。どの声も、言った瞬間は、たぶん本気なのだ。少なくとも半分は。だから木として、一度は根を下ろした。そして、枯れた。嘘は木にすらならない。この荒野に立っているのは全部、本気で交わされて、それでも破られた約束なのだ。


 歩きながら、俺は、囁きの種類を、職業病で分類し始めていた。金の約束。再会の約束。更生の誓い。愛の言葉。……分類は、三十分で、やめた。どの区分の木も、傾き方が、同じだったからだ。約束は、種類がどうあれ、破られる時は、同じ角度で傾く。分類に意味のない帳簿を、俺は初めて見た。


 昼、短い休憩を取った。誰も、あまり食が進まなかった。ヴァルガの堅パンだけが、いつも通りの味で、いつも通りの味であることが、この場所では、ほとんど救いだった。パンを齧りながら、ミラベルがぽつりと言った。「……ここ、音の反響がおかしいと思ったら、そうか。木が全部、聞いてるんだ。あたしたちの話も」。全員の箸――パンが、止まった。以後、休憩中の軽口は、自然と、消えた。聞かれて困る話はないが、聞かせて申し訳ない場所というものが、世界には、ある。


 エルシーは、途中まで、枯木の数を数えようとしていた。職業病である。彼女の指が、袖の中で動いているのが分かった。千を超えたあたりで、指が、止まった。数えることをやめた聖女の横顔は、俺が三年間で見た中で、一番、静かだった。「……帳簿に載らない量というものを、初めて、見ました」。うちの帳簿の女王が、計数を、降りた。それがこの荒野の、一番正確な測量結果だった。


 一番堪えていたのは、レーヴェだった。


 彼女は、触れる必要がない。剣聖の五感は、枯木の海の囁きを、勝手に、全部、拾ってしまう。地平線までの、万年分の「ごめん」と「どうして」と「待ってたのに」を。三時間も歩いた頃には、彼女の顔から血の気が引いて、足取りが、目に見えて重くなっていた。


「レーヴェ。耳、塞げるか」


「……無理。塞いでも、聞こえる種類の音だから。……大丈夫。歩ける。ただ、さ」


 彼女は、地平線を見た。


「これ、全部……誰かが、本気で言ったんだよね。本気で言って、破っちゃったんだよね。……あたし、今まで、話を聞けば、涙が届けば、人はやり直せるって思ってた。実際、やり直せた人を、いっぱい見てきた。でも」


 枯木の海は、地平線の向こうまで、続いている。


「――やり直せなかった数が、これ、なんだ」


 彼女の声には、責める色は、なかった。あれは、自分の信じてきたものの棚卸しを、正面からやっている声だった。三年間、傾聴一本で世界と渡り合ってきた人間が、傾聴の届かなかった万年分の在庫の前に、立っている。それでも彼女は、目を、逸らさなかった。「視てから、言え」の宿題を、うちで一番誠実にやっていたのは、間違いなく、彼女だった。


 誰も、返す言葉を持たなかった。俺も、だ。反論の材料を、頭の中の書庫で探した。見つからなかった。俺たちが三部作かけて積み上げてきた「言葉は届く」「人はやり直せる」という実績は、この荒野の総量の前では、砂粒だった。ヴァルガも、シアも、バウ爺も、ユーリスも――うちの帳簿の「やり直せた」の欄は、両手で数えられる。この荒野は、数えられない。閉門派が「視てから言え」と言った意味が、骨身に染みた。これを万年視てきた者に、言葉の価値を説く資格が、俺たちにあるのか。


 先頭のシジマは、振り返らなかった。ただ、静かに、自分の職場を、歩いていた。時折、道端の傾きかけた枯木に、藍色の袖が、すっと添えられた。傾ぎが、直る。世話番の手つきだった。万年分の身についた、無意識の。


 途中、閉門派の世話番の精霊たちと、すれ違った。灰青色の、寡黙な精霊たち。彼らは道具を持っていた。枯木の支えの添え木、風化を遅らせる薬液の壺、そして、小さな箒。墓守の道具である。彼らは俺たち人間を見て――睨むでも、詰るでもなく、ただ、静かに、道を空けた。空けられた道の意味を、俺は考えた。この荒野を作った種族に、道を空ける。それが彼らの、万年の礼儀なのだ。礼儀の返し方が、正直、分からなかった。全員、深く一礼して通った。それしか、なかった。


 夕刻が近づくにつれ、荒野の光は、独特の色になった。色のない空が、わずかに、鈍い銀を帯びる。枯木の影が長く伸びて、地面の古い文字と、絡み合う。美しい、と言っていいのか、誰も分からない種類の景色だった。悲しみにも、万年も続けば、風格が出る。この荒野の夕暮れには、それが、あった。


 日が傾き始めた頃だった。うつむいて歩いていたレーヴェが、ふいに、足を止めた。


「……ねえ。あれ」


 彼女の指す先。灰色の枯木の根元に――小さな、白い点が、あった。


 目を凝らす。点は、一つではなかった。枯木の海のところどころに、点々と、ぽつり、ぽつりと。


 花が、咲いていた。

次回「第14話 荒野の花」は、10月31日(土)18時30分更新です。

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