第12話 荒野の入口
前回:「第11話 視察の条件」
◆滞在十三日目、視察一日目。
出発の直前、ベッシと、ひと悶着あった。こいつは荒野行きを、全身で渋ったのだ。襞を縮め、鞄の底に潜り、出てこない。母精霊が迎えに来て、鈴の音で何かを言い聞かせ、ようやく肩の定位置に戻った。後で言祝に聞いた。探し番の一族は、代々、荒野の「世話番」から転じた家系なのだという。枯木の世話は、精霊の心を、少しずつ、削る。だから世話番の子らは、いつか、荒野の外に「枯れない約束」を探しに出る。……ベッシの食い意地の家系図に、そんな根が生えていたとは。こいつが俺の書類に居着いた理由が、また一段、重くなった。
道は、行くほどに、古びていった。
足元の文字が掠れ、道標の一人称が「わたしは……三里……です……たぶん」と自信を失い、風に乗る言葉の欠片から、音が抜けていく。緑の「約束の森」の遠景が背後に沈み、空の色が、藍から灰へ、灰から、色のない色へ。道中、すれ違う精霊の数も減っていった。この方角には、糧がないのだ。言葉の世界の飢餓地帯へ、俺たちは歩いていた。
行程は、徒歩だった。この世界に、馬も車もない。あるのは道と、道を励ます看板と、歩く者の足だけ。ただし精霊界の徒歩は、不思議と疲れが浅い。足元の古い挨拶の道が、歩く者の踵を、微かに、押してくれるからだ。万年前の「いってらっしゃい」に押されて、破約の荒野へ歩く。皮肉の利いた道行きだった。
シジマの歩みは、一定だった。休憩も、先導の身振りも、必要な時に必要なだけ。無言の案内は、意外なほど、行き届いていた。夜営の場所は風のない窪地が選ばれ、水場(言葉の澄んだ小川。飲むと、喉の奥で古い子守唄の味がした)の前では、ちゃんと足が止まる。万年の沈黙者は、万年分、気配りの手際だけが、磨かれていた。レーヴェが小声で言った。「あの人さ……無口なだけで、優しいよ、多分」。傾聴の読みが届かなかった相手の心を、彼女は、所作から読み直し始めていた。剣聖の傾聴は、耳だけでするものではないのだ。
二日目の昼、最後の道標とすれ違った。「わたしは……この先……ええと……」。それきり、黙った。自分の距離を、忘れてしまった道標だった。レーヴェが膝をついて、掠れた文字を指でなぞり、「大丈夫、道は合ってるよ」と、逆に励ました。道標に励まされる世界の、道標を励ます人間。この旅の似顔絵として、あれ以上の一枚はない。
二日目の夕刻、視察団は、丘の上に出た。
そして、それを、見た。
「――――」
誰も、声が出なかった。
丘の下、地平線まで。灰色の枯木が、立っていた。一本一本が、破られた約束。守られた約束が森に木を育てるように、破られた約束は、ここに、枯木を立てる。それが、視界の果てまで――果ての、そのまた果てまで、埋め尽くしていた。数える、という行為が意味を失う量だった。万年分の、人間の、破約のすべて。
「これ、が……」レーヴェの声が、掠れていた。「これが、全部……誰かが、誰かにした、約束……」
同行の推進派の若い精霊二人も、立ち尽くしていた。一人が、震える声で言った。「……話には、聞いていました。でも、来たのは、初めてです。閉門派の古老たちは、ここの枯木の世話を、万年……」。世話。枯木に、世話。聞けば、閉門派の精霊たちは、この荒野の枯木を、朽ちるに任せず、一本一本、立たせ続けているのだという。破られた約束にも、一度は本気だった瞬間がある。その一瞬の分だけは、立たせておいてやる――それが、彼らの流儀だった。破約の荒野は、告発の陳列場ではなかった。万年がかりの、巨大な墓守の現場だった。
ベッシが、俺の肩から降りて、地面に、ぺたりと平たくなった。灯台で見た、あの最敬礼。ただし今度のは、礼というより――帰省だった。世話番の家系の子が、一族の万年の職場に、頭を垂れていた。
軽い約束もあるだろう。仕方のない破約も、あるだろう。だがこの数は。この、地平線を埋め尽くす数は。俺は、自分がこれまで扱ってきた契約書の束を思った。俺の書面の何枚が、この荒野のどこかに、枯木を立てているだろうか。考えて、やめた。やめられる贅沢が、俺にはまだあった。万年、これを視続けてきた者には、なかった贅沢が。
風が、荒野を渡った。枯木の梢が、かさ、と鳴った。葉のない木々の鳴る音は、遠い昔の「ごめん」の残響に、少しだけ、似ていた。
丘を降りる前に、俺は、手近な一本の枯木に、歩み寄った。幹に手を当てると、微かに、文字の名残が読めた。『かならず、むかえにいく』。誰が、誰に、いつの約束かは、もう分からない。迎えは、来なかったのだ。それだけが、確かだった。俺は、幹から手を離す前に、一礼した。約束の墓に、他にできる挨拶を、知らなかった。振り向くと、仲間も、同行の精霊たちも、思い思いの枯木の前で、同じことをしていた。シジマだけが、丘の上から、それを、じっと見ていた。
先頭の佇む夜が、振り返った。
そして、シジマは――万年無言の大精霊は、初めて、「案内」の身振りをした。藍色の袖が、ゆっくりと持ち上がり、枯木の海の中へ続く一本の小道を、指し示す。どうぞ、と。我らが万年視てきたものの、中へ、と。
その身振りは、静かで、恨みの色がなくて――だから、余計に、重かった。
*
その夜の野営は、静かだった。焚き火(言葉の世界の焚き火は、燃やすのが薪ではなく「古い挨拶の束」で、燃える音が、微かに、ざわめきに似ている)を囲んで、誰も、荒野の話をしなかった。話せる段階に、まだ、誰もいなかったのだ。代わりにレーヴェが、ぽつりと言った。「明日、中に入るんだよね。……あたし、ちゃんと最後まで視るよ。目、逸らさないで」。全員が、頷いた。閉門派の条件は「視よ」だ。なら、視る側の礼儀は、目を逸らさないこと、一つだけだった。
その夜。荒野の入口の野営地で、エルシーは、いつもの手紙を書いた。門の小窓宛て、即日便。
『滞在十四日目。本日、破約の荒野の入口に着きました。
言葉にできない景色でしたので、言葉にするのは、帰ってからにします。
一つ、良い報せを。この世界には「約束の実」という果物があります。果たされた約束の木に実るのだそうです。私が頂いたものは、とても、良い味がしました。あなたにも、いつか。
名前の濃度、八割七分。ご心配なく。毎朝、丁寧に書いております。』
そして翌朝――門の小窓が開く一刻に、返事が、届いた。即日便。書いて、寝て、起きたら返事が来る。三十日の船便の時代を思えば、文通というより、もう、ゆっくりした会話だった。
返事は、いつも通り、生徒たちの近況が丁寧に綴られ、末尾に、こうあった。
『こちらの授業で、精霊界の話をしました。すると生徒の一人が言うのです。「先生も、行きたいの?」と。
……返答に、三秒、かかりました。教師として、あるまじき動揺です。
約束の実の件、承知しました。「いつか」を、こちらの手帳にも、書き留めておきます。』
手紙を読み終えたエルシーは、それを丁寧に畳んで、懐の――あの、実を包んだ懐紙の隣に、仕舞った。
「いつか」が、両方の手帳に、書き留められた朝だった。荒野の入口の、色のない空の下で、その手紙一往復だけが、約束の森の若葉の色をしていた。明日は、枯木の海の中へ入る。懐に若葉を一枚持って入れることを、俺は、隊の運として、ありがたく思った。
(第2章・了 →第3章「嘘の谷と、約束の墓場」へ続く)
次回「第13話 破約の荒野」は、10月30日(金)18時30分更新です。




