第11話 視察の条件
前回:「第10話 沈黙の大精霊」
◆滞在十二日目。濃度、八割九分。
朝の計測で、初めて、目に見えて墨が薄くなった。九割を切ると、書いた自分の名が、他人の字に見える瞬間がある。ほんの一瞬だが、ぞっとする一瞬だ。あの立会人は、この「薄れ」の、万年分の先にいる。計測の儀式は、朝ごとに、他人事ではなくなっていった。
「視察の行程表を切る。目的地は、閉門派の指定する三箇所。『破約の荒野』『お世辞の霧』『軽口の沼』。……地名だけで胃が重い。行程は、荒野に三日、霧に一日、沼に一日。移動込みで、九日から十日。帰還後、中間報告の開門日を挟んで、協議の本番に入る」
「観光名所の逆だね」とレーヴェ。「人間の言葉の、悪いとこ巡り」
「巡られる側の身にもなってみろ。全部、うちの種族の出したごみだぞ」
「でも、行くんでしょ」
「行く。ごみを出した側が、処理場の見学を断る道理はない。それに――両大陸で学んだだろ。相手の三十年なり三百年なりを、その足で見に行った案件だけが、まとまった。万年も、同じはずだ」
「そうだ。そして、断れない。『視てから、言え』は、正論だからだ。うちが両大陸でやってきたことと、同じ理屈だからな。ヴァルムの言い分を聞き、リズレアの言い分を聞き、それから条文を書いた。閉門派の言い分は、言葉じゃなく、土地の形をしてる。なら、視に行くのが筋だ」
交渉の場を整えるのは、代理人の仕事だ。俺は視察団の構成から詰めた。公平を期して、両派から同数の立会。推進派からは言祝の名代の若い精霊が二人(志願だという。「閉門派の視てきたものを、私たちの世代も、視ておくべきなので」。若いのに、いい目をしていた)。そして閉門派からは――
「シジマ様、ご本人が、案内に立たれるとのことです」
法務精霊の伝達に、間がざわついた。大精霊の外出は、それ自体が歴史的事件らしい。言祝は「あの方が大書庫の外へ出られるのは、私の知る限り、三千年ぶりです」と目を丸くした。三千年ぶりの外出の用向きが、人間への「悪いとこ巡り」の案内。閉門派の本気の度合いが、これで測れた。万年無言の大精霊が、自ら、案内役を。それだけ、この視察に懸けているということだ。「視てから、言え」。彼らの主張の、全部が、あの三箇所にある。裏を返せば――視た後の俺たちの言葉だけは、聞く用意がある、ということでもあった。白紙の派閥が、初めて寄越した、一行の文。あれは条件であると同時に、万年ぶりに差し出された、細い細い、対話の糸口だった。切らさないことが、代理人の全てだった。
出発準備の間、ミラベルは大書庫に入り浸っていた。彼女には彼女の調査があった。原初の詠唱――契約より古い言葉の技術の、痕跡探しである。司書精霊たちは、最初、貸出範囲で揉めたが(「最古層の巻物は貸出不可」「閲覧は」「可。ただし、書庫内で」)、三日目には彼女の手帳の計測記録に感嘆して、閉架の鍵ごと案内役を買って出ていた。記録を毎日つける人間は、どの世界の司書からも、信用されるのである。
そして出発前夜、彼女は書庫の奥から、埃まみれの巻物を抱えて、宿舎に駆け込んできた。
「――あった! あったよ、リド! 見て、これ! 埃で三回くしゃみした甲斐があった!」
巻物は、契約以前の時代の、祈りの記録だった。文字ですらない、原初の記号の羅列。だが法務精霊の翻訳補助で読み解くと、それは、まぎれもなく――詠唱だった。
埃を払う手つきからして、興奮が漏れていた。彼女は巻物を卓に広げ、法務精霊を二人叩き起こし(精霊は眠るのか? とにかく起こした)、翻訳の突貫作業をやってのけたのだった。
「『久遠の闇の底より、最初の光は生まれ落ち』……ちょっと違うけど、骨格が同じ! 『黎明』の祖形だ! 契約ができるより前、人は、こうやって、長い長い言葉で、世界そのものに語りかけてた! 所要時間の記録もある――ええと、換算すると……」
「十三分、か?」
「――十五分! 昔の人、私より長い!!」
「対抗するな。……で、その原初の詠唱、何を頼む詠唱だったんだ」
「それがさ」ミラベルの声が、少し、静かになった。「雨乞いでも、豊作でもないんだ。訳すとね――『どうか、この言葉が、届きますように』。それだけ。十五分かけて、『届け』って、それだけを頼んでる。……契約の前の人たちはさ、言葉が届くってこと自体が、祈りだったんだよ」
言葉が届くことが、当たり前ではなかった時代。その当たり前を作ったのが、あの原本で――当たり前の値段を、万年、独りで払い続けている人がいる。調査は、どこを掘っても、同じ場所に突き当たった。
なぜか対抗心を燃やすミラベルはさておき、発見の意味は大きかった。詠唱は、契約の産物ではない。契約より古い、原初の様式。精霊に借りず、契約に頼らず、ただ言葉を尽くして世界に頼む――一番遠回りで、一番古い、対話の形。
「……つまりさ。契約が消えても、詠唱だけは、残るってこと?」
「理屈の上では。確定はまだだ。だが、もしそうなら――交渉が最悪の形で決裂した世界でも、お前の魔法だけは、灯りとして残る。覚えておいてくれ」
「……縁起でもない保険だなあ」
「保険ってのは、縁起でもないから掛けるんだ。それと、もう一つ。この発見、協議で使うぞ。詠唱が契約より古いってことは――『言葉に、本気を通わせる技術』は、契約がなくても人間に可能だ、という実証でもある。閉門派の『人間の言葉は軽くなった』への、数少ない反証材料になる。十五分かけて『届け』とだけ頼んだご先祖と、十三分かけて夜明けを頼んだお前は、同じ系譜だ。……誇っていい」
「ふ、ふふん。まあ、私は昔から、時代の最先端というより、時代の最古参の側だったわけだね」
誇り方の角度は相変わらず斜めだが、士気は上がった。良しとする。
視察の条件を整える傍らで、俺は言祝側とも、詰めの作業を続けた。推進派の新契約素案の、立会人条項の代替案。まだ影も形もない「万人の一瞬に分散する」構想の、部品集めである。オルサの更新条項、西の応答詠唱、名簿の読み上げ式。うちが三年で見てきた「みんなで支える様式」の在庫を、卓に全部並べた。並べて、まだ、足りなかった。万年をばらして万人に配る算術が、どうしても、あと一段、届かない。届かないまま、視察の朝が来た。……足りない時は、現場に出る。窓口の鉄則である。答えは大抵、机の外に落ちている。
出発の朝、視察団は大書庫の門前に集合した。荷は軽装、行程は往復で十日弱。エルシーは小窓宛ての手紙の「留守中の便」を、日付順に七通、先に預けていった(几帳面の極みである。「毎朝、と申し上げましたので」とのこと。約束の運用に、例外はない)。七通の中身は「書き溜め」だが、日付ごとに、その日の予定に合わせた文面にしてあるという。三日目の便には「今日は荒野の中です。ご心配なきよう」。……心配させない技術まで、几帳面だった。
先頭に、佇む夜。シジマは、俺たちを一瞥(したのだと思う。顔がないので推定だ)し、荒野の方角へ、音もなく、歩き出した。
ベッシが、俺の肩の上で、ぶるり、と震えた。行き先の名を、思い出したらしい。俺は肩の相棒の襞を、指先で一度だけ、撫でた。行こう。お前の一族の職場を、見せてもらいに。
破約の、荒野。
次回「第12話 荒野の入口」は、10月29日(木)18時30分更新です。




