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第10話 沈黙の大精霊

前回:「第9話 名のない人」

◆同日、続き。記録の筆が、少し重い。重いまま、書く。


 それは、佇む夜だった。


 扉をくぐって現れたのは、墨を幾重にも重ねたような、深い藍色の、大きな影。外套のようでもあり、夜の一部が歩いてきたようでもある。顔にあたる位置に、光は、ない。歩いても、足音がない。近づかれると、こちらの心音まで、遠慮して小さくなる気がした。


 沈黙の大精霊、黙(シジマ)。閉門派の長にして、万年、一言も発したことのない存在。資料で読むのと、同じ部屋の空気を吸うのとでは、まるで違った。存在の密度が、違うのだ。言祝が「暖かい光」なら、シジマは「深い静けさ」。どちらも、こちらの心の芯まで届く。大精霊とは、属性の違う圧の別名らしい。


 俺は立ち上がり、一礼して、名乗った。名乗りながら、気づいた。名を持ち、名を名乗れることが、この部屋では、どれほど恵まれた挨拶か。名の薄れた人と、名を持たない沈黙の前で、俺の名乗りは、我ながら、少し、眩しすぎた。返答は、なかった。当然だ。代わりに、シジマの袖の闇から、一枚の紙が、ひらりと差し出された。俺は受け取り、確かめた。


 白紙、だった。挨拶にすら、白紙で応える。徹底している。だが不思議と、無礼とは感じなかった。差し出す手つきが、丁寧すぎたからだ。だが俺は、受け取った白紙を、折らずに、丁寧に、書類鞄の一番上に納めた。白紙も、この方の書面である以上、書面の扱いで遇する。シジマの顔のない顔が、その手つきを、じっと見ていた気がした。


 扉の外で待っていた仲間たちも、間に招き入れられた(立会人が、小さく頷いて許した)。そして、うちの搦め手の第一走者が、進み出た。


 仲間たちの緊張は、それぞれの形で出た。ミラベルは杖を握り直し(戦う相手ではないのだが、魔力の桁が本能を刺激するらしい)、エルシーはひびの入った聖印を、服の上から押さえた。レーヴェだけが、いつもの構えだった。強敵の前でも、悲しい人の前でも、同じ姿勢。まず、聞く。


「――初めまして。レーヴェっていいます。あんたの話を、聞かせてほしい」


 剣聖の傾聴。三百年の魔王を泣かせ、三十年の灯台守の扉を開けた、うちの最強の一手。彼女はシジマの正面に立ち、まっすぐに、その闇を見上げた。一分。二分。彼女の集中が、深くなっていくのが分かる。心音を、呼吸を、感情の揺れを読む、剣聖の五感が、全開になっていくのが。


 五分は、長い。ゴードンの「該当情報、ナシ」は数秒で返ってきた。この五分は、彼女が諦めなかった五分であり、諦めさせられなかった五分だった。


 五分後、レーヴェは、一歩、後ろによろめいた。額に、汗が浮いていた。


「……だめだ」


「読めないのか。ゴードンの時みたいに、『無い』のか」


「違う。……逆。無いんじゃない。在るの。ものすごく深いところに、ものすごく大きいのが。でも、静かすぎて――湖の底を、上から覗いてるみたい。深すぎて、暗すぎて、底に何があるのか、あたしの目じゃ、届かない。……こんなの、初めてだ。でもね、一個だけ、分かった。あの深さは、怒ってる深さじゃない。あれは……待ってる深さだ。何を待ってるのかまでは、届かなかったけど」


 待ってる深さ。傾聴の届かなかった湖の底から、彼女はそれでも、一語だけ、拾い上げてきた。この一語が、後にどれほど効くか、この時はまだ、誰も知らない。


 次に、エルシーが聖印を――ひびの入ったそれを――そっと掲げた。彼女は数秒で、首を横に振った。


「……封じられても、鍵を掛けられても、いません。この方の心は――満杯、です。万年分の、他人の言葉で。破られた約束を、万年、聞き届け続けて……ご自分の言葉の入る場所が、心のどこにも、残っていない」


 ミラベルが「なら私の詠唱で」と言いかけて、三人がかりで止められた(様式美)。ただし彼女の観測だけは、収穫があった。「あの人の魔力……原初の詠唱の巻物と、同じ手触りがする。契約より、古い側のひとだ。多分、この世界の誰よりも」。契約より古い側。言葉が力を持つ前の世界を知る者。言祝の言い伝えと、符合した。


 搦め手、全滅である。話は聞けず、涙は届かず、懺悔の泉は満杯で、そして書面は白紙。第一部のゴードン以来の、いや、あれ以上の壁が、目の前に、静かに佇んでいた。ただ、一つだけ、ゴードンの時と違うことがあった。あの石の巨人は、こちらを「排除対象」に区分した。この佇む夜は――俺たちを、区分すら、していない。敵意も、期待も、何もない。万年の沈黙は、評価という行為そのものを、とうに済ませてしまった者の沈黙だった。


 シジマは、俺たちの試みのすべてを、咎めもせず、応えもせず、ただ受けていた。そして、来訪の目的を果たしに、動いた。


 立会人の、傍らへ。


 万年の閉門派の長が、契約の犠牲者を、責めに来るのでも、担ぎに来るのでもなく。


 佇む夜は、灰色の人影の隣に、静かに、並んで立った。何もしない。何も言わない。言葉の世界のどこよりも深い沈黙が、二人分の輪郭を、包んだ。立会人も、何も言わなかった。ただ、その横顔が――ほんの少し、和らいでいた。


 その静けさの中で、俺は、白紙の意味を、もう一段、深く理解した。エルシーの診立て――シジマの心は、万年分の他人の言葉で満杯。ならば、あの白紙は、不信の表明であると同時に、事実の申告でもあるのだ。『私には、書き込む余白が、もう、ない』。白紙は、あの方の、心の写しだった。


 それは、月に一度、万年繰り返されてきた光景なのだと、後で言祝に聞いた。閉門派の長は、万年、月に一度、欠かさず、契約の犠牲者のもとへ通い続けてきた。言葉を持たずに。言葉の代わりに、隣に立つ一刻を持って。……閉門派の主張書の白紙が、また一段、重くなった。あの白紙は、言葉への不信だけでできているのではない。あの静かな間で万年繰り返された、言葉にならない何かも、漉き込まれている。


 帰り際、俺は一つだけ、試した。挨拶の白紙への、返礼である。俺は懐紙を一枚出し、何も書かずに、しかし、四つに丁寧に折って、普通の白紙とは違う折り方で、シジマに差し出した。書類を「後で開くために」畳む、窓口の折り方だ。白紙のまま、しかし「これは、いつか開かれる紙です」という形をした白紙。受け取ったシジマは、袖の闇の前で、それを長いこと、見ていた。返事は、なかった。だが、捨てられも、しなかった。


 やがて、シジマは、来た時と同じ静けさで、去った。去り際、俺たちの前で一度だけ足を止め、袖の闇から、もう一枚、紙を差し出した。今度は、白紙ではなかった。短い、一文。


『協議ノ前ニ、視ヨ。我ラガ万年、視テキタモノヲ。』


 ――閉門派からの、正式な条件だった。


 紙を受け取った俺は、その場で、返答した。「承知しました。視察の行程は、こちらで整えます。案内を、お願いできますか」。即答に、居合わせた法務精霊たちがざわめいた。閉門派の条件を、値切りも渋りもせずに呑む代理人。だが、これは値切る場面ではない。「視てくれ」という頼みを渋る者に、「聞いてくれ」と頼む資格はない。交渉とは、そういう順番でできている。シジマの顔のない顔が、俺の返答を、しばらく受け止めて――袖の闇に、白紙の束を、静かに納めた。次の白紙を出す機会を、一枚分、仕舞った仕草に、見えなくもなかった。

次回「第11話 視察の条件」は、10月28日(水)18時30分更新です。

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