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第9話 名のない人

前回:「第8話 満期のない契約」

◆滞在十日目。


 原本の間には、俺一人で入った。仲間は扉の外で待っている。レーヴェは「無理そうなら、すぐ呼んで」と言い、エルシーは何も言わずに、俺の上着の襟を、一度だけ直した。二人きりの――一人と、一人分の輪郭きりの――静かな部屋で、灰色の人影は、台座の傍らの定位置に、立っていた。


 扉を閉める前、深呼吸を一つした。魔王との面接も、両王への調印要請も、こんなに緊張はしなかった。あれらは、うちの実績の延長線上の仕事だった。これは違う。万年の先達との、一対一。事務屋の家系図の、根と、枝先の対面である。


「お呼び立てして。……お座りください。椅子は、ないのですが」


 声は、思ったより、はっきりしていた。穏やかで、乾いていて、そして――事務的だった。俺は台座の段に腰を下ろした。立会人は、立ったままだった。万年、そうしてきた立ち方で。


「一つ、伺っても」先に口を開いたのは、俺の方だった。「なぜ、俺を。指名の理由を」


「……万年、この部屋で、多くの読解を聴きました。学者の読解、聖者の読解、王の使いの読解。皆、この契約を『偉大な遺物』として読んだ。あなただけが――『現役の書類』として、読んだ。運用を前提に、直す場所を探しながら。……遺物には、参拝者が来ます。書類には、担当者が来る。私は万年、担当者を、待っていたのかもしれません」


 担当者。その四文字の重さを、俺はこの日、生涯分、教わった。


「まず、御礼を。先日の読解、拝聴しました。……良い読みでした。『よろずの』の一箇所以外は、註も入れようがなかった」


「あそこは、お恥ずかしい。辞書が悪いということにさせてください」


「ふ。……事務屋は、辞書のせいにしてはいけません」


 笑った。輪郭の薄い顔の、口元だけが、確かに。万年前の起草者と、駆け出し八年目の事務屋の間に、その一笑いで、何かの回線が、繋がった。同業というのは、そういうものだ。年季の差が万年あっても、様式の前では、同じ机の住人である。


「本題です。あなたの書面を、読みました。『和平宣誓書』。それから『講和条約(仮)』。……この書庫に新しい書面が収蔵されると、法務の者たちが、評判の良いものを、私に見せに来てくれるのです。万年の、唯一の娯楽でしてね。ここ数百年は不作でしたが――あなたの二枚は、久々の、当たりでした」


「……恐縮です」


「特に、宣誓書の更新条項。十年ごとに、誓い直させる。……あの設計は、私にはできなかった。私の時代には、十年後を信じる材料が、なかったので。永久契約しか、書けなかった。あなたの十年は、時代が良くなった証です。少し、妬ましいくらいに」


「……時代を良くしたのは、あなたの永久契約です。あなたの万年が、十年を信じられる世界を、作った。俺の更新条項は、あなたの土台の上の、増築に過ぎない」


「増築、ですか。ふふ。……事務屋どの。増築の上手い者は、いつか、建て替えもうまい。期待して、いいのでしょうね」


 万年の重さを、軽口の形で渡してくる。この人の話術は、乾いていて、正確で、そして、痩せ我慢の年季が入っていた。誰に似ているとも言わないが、身に覚えのある話術だった。


 万年前の先達に妬まれる。事務屋人生の勲章として、これに勝るものは、多分、今後も出ない。


「あなたの仲間の話も、法務の者から聞いています。傾聴の剣士。記録の聖者。長い詠唱の魔導士。……良い座組だ。書面は、書く者だけでは、完成しない。聞く者と、覚える者と、届ける者がいて、初めて生きる。私には――私の時代には、その三人が、いなかった」


 独りで書いた、ということだ。世界を変える契約書を、聞き手も、記録者も、届け手もなしに。俺は、自分の三年間の幸運の輪郭を、万年前の孤独の形で、教わっていた。


「立会人条項の再設計の噂も、聞いています。私を、条項から降ろす算段だとか」


 単刀直入だった。事務屋同士の会話に、前置きは要らない。俺も、まっすぐに答えた。


「はい。あなたの万年を、万人の一瞬に分散する。まだ仮説段階ですが、必ず、様式に落とします」


「……そのことで、一つだけ、先に言っておきたかった。呼んだのは、そのためです」


 立会人は、原本に、薄い手を、触れるか触れないかの距離で、かざした。


「私を『気の毒な犠牲者』として設計しないでください。私は、承知の上でした。あの頃の世界の嘘の量を、あなたは前文でしか知らない。私は、あの中で生きた。妻の墓の場所を、墓守に三度、嘘で教えられる世界です。……契約を書いた時、対価の欄で、筆は一度も、止まらなかった。誰かが払うなら、書いた者が払うのが筋でしょう。第一行に置いたのも、様式上の必然です。対価は、一番目立つ場所に書くのが、誠実ですので」


「――同感です。俺も、違約条項は一頁目に書く」


「でしょうね。あなたの書面は、そうなっていた」


 また、口元だけで笑って、それから、灰色の人影は、少しだけ、声の調子を落とした。


「ただ……一つだけ、様式の外の話をしても、いいですか。万年ぶりの、様式の外の話を」


「どうぞ」


「辛い、という言葉の手触りは、とうに忘れました。名も、顔も、妻の声も、薄れました。呼ばれない名は、雪のようなものです。降った時は確かにあったのに、気づけば、形がない。……ですが、指先だけは、覚えているのです。良い書面を読む時、指先が、少しだけ、あたたかい。あなたの和平宣誓書を読んだ夜は――万年で、いちばん、あたたかかった」


 俺は、何かを言おうとして、言葉が――俺の商売道具が――一つも、出てこなかった。条文の言葉しか出てこない、といういつもの欠陥ですら、なかった。条文の言葉すら、出てこなかったのだ。万年の指先の記憶の前で、八年目の在庫は、空だった。


「ですから、事務屋どの。頼みは、一つだけです。私の後の様式が、どんな形になるにせよ――最終行にだけは」


 薄い指が、原本の、あの一文を指した。条文ではない、願いの一行を。


「あれを、残してやってください。若気の至りの一行ですが……あれだけは、万年、色褪せなかった」


「――お約束します。あの一行は、若気の至りなんかじゃない。あれは、この契約書の、本当の第一条だ。万年、そう読んできた読者として、保証します。契約書に書きますか」


「ふふ。……口約束で、結構。ここは、口約束が効く世界ですので」


 言った瞬間、俺の胸元のあたりで、空気が、ぽう、と淡く光った。オルサの市場で見た、あの誓いの光。約束は、受理された。世界で一番古い事務屋と、一番新参の事務屋の間の、一行の口約束が、正式に。立会人は、光の余韻を眺めて、囁くように言った。「……久しぶりに、私宛ての誓いを、見ました」。万年ぶりの受信だった。送り主になれたことを、俺は多分、生涯、自慢していい。


 その時だった。部屋の空気が、す、と冷えた。いや、冷えたのではない。――静かに、なったのだ。扉の軋みも、俺の衣擦れも、音という音が、綿に吸われるように薄れていく。


 立会人が、扉の方を見て、少しだけ、目元を和らげた。


「……ああ。今日は、あの方の、いらっしゃる日です」


 その言い方の柔らかさで、分かった。万年の部屋の主にとって、月に一度のその日が、どういう日なのか。カレンダーも祝日もない部屋の、唯一の、しるしのついた日なのだ。

次回「第10話 沈黙の大精霊」は、10月27日(火)18時30分更新です。

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