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第8話 満期のない契約

前回:「第7話 様式考古学」

その問いを、俺は言祝に、正面からぶつけた。大書庫の会談の間で、対訳表を卓に広げて。


 問う前に、うちの中では、答えの見当が、半分、ついていた。前夜、宿舎で対訳表を囲んだ時、エルシーがずっと、第一行を見ていたからだ。ひびの入った聖印に手を当てて、何かを確かめる顔で。答え合わせをしに行くような、重い足取りの朝だった。


「満期条項は、存在しない。なのに精霊界は『まもなく満期』と言った。矛盾です。そして、依頼書に矛盾を書く組織じゃないことは、この二十日で分かっている。つまり『満期』は、比喩だ。何かが尽きることの。……教えてください。何が、尽きようとしてるんですか」


 言祝の纏う光の花びらが、一枚、また一枚と、色を失って、床に落ちた。老いた大精霊は、長い沈黙の後、静かに、頭を垂れた。


「……お気づきの通りです。契約に、期限はありません。期限があるのは――契約では、なく」


「立会人」


 言葉にしたのは、エルシーだった。部屋の全員が、その二文字の落ちる音を、聞いた。彼女は胸元の、ひびの入った聖印に手を当てていた。


「あの方の、ご存在そのものが、契約の担保。……ならば、満期とは。あの方の輪郭が、擦り切れる時。あの方という『紙』が、破れる時のことですね」


「――左様に、ございます」


 言祝は、顔を上げなかった。


「名は、呼ばれることで保たれます。じゃが、あの方の名は、万年前に契約へ納められ、以来、誰にも呼ばれておりません。呼ばれぬ名は、雪のように薄れる。輪郭も、記憶も、少しずつ。……我らの見立てでは、あと、一年。保って、一年にございます。あの方が消えれば、担保を失った契約は、崩れ落ちる。それが――我らの申した、『満期』の正体」


 部屋が、静まり返った。最初に声を上げたのは、レーヴェだった。椅子を蹴って立ち上がった彼女の声は、震えていた。


「――なんで! なんで万年、誰も代わらなかったの! 精霊が何万といて、人間が何億と生まれて死んで、誰一人、あの人の代わりに立たなかったの!?」


 声が、会談の間の高い天井に反響した。言葉の世界で、剣聖の叫びは、部屋の光をびりびりと震わせた。具現化しかけるほどの、本気の言葉だった。若い法務精霊が身を竦め、しかし言祝は、その震えを、正面から受けた。受けてから、答えた。


「代われぬのです」


 言祝の声は、痛みを堪える声だった。万年の痛みを、祝いの専門家が、祝えないまま抱えてきた声だった。


「対価の名は、契約と一体。差し替えは、契約そのものを結び直す以外に、道がない。……申し出た者は、おりました。万年の間に、精霊も、事情を知った人間も、幾人も。皆、条項の前に、退けられました。あの方ご自身も、一度たりとも、代わりを望まれなかった。『書いた者が払うのが筋』と、それだけを」


「じゃあ、精霊界にできたことは」


「――呼ばぬ名の代わりに、通うことだけに、ございました。あの扉の一行を、ご覧になりましたろう。『万年、お疲れゆえ』。……我らにできた精一杯が、あの、彫り文字にございます」


 あの扉の一行を彫った精霊は、泣きながら彫ったのだと思う――俺の直感は、当たっていたわけだ。当たって、嬉しくない直感だった。


 俺は、対訳表の第一行を、見下ろしていた。世界中の誓いが――オルサの和平が、西の講和が、ミラベルの詠唱の届く先が、市場の指切りの一つ一つが――全部、独りの人間の、擦り切れかけた万年の上に、建っていた。


 俺たちは知らずに、その上で、商売をしてきたのだ。三年間。約束を守らせ、約束で食い、約束の力を使って、二つの戦争を止めた。その力の源泉の担保が、名も呼ばれない誰かの、擦り切れる輪郭だったとは、知りもしないで。


「一年、ですか」エルシーが、静かに確かめた。「見立ての、根拠は」


「輪郭の、薄れの速さにございます。この百年で、あの方の輪郭は、それまでの千年分、薄れました。薄れは、加速しております。……言葉が軽くなる時代は、担保への負荷も、重くなる時代ゆえ」


 人間界の言葉が軽くなるほど、契約の効力の負担が、あの一人に集中する。閉門派の言う「言葉の軽さ」は、精霊の飢えの話であると同時に――あの人の、擦り減りの速さの話でもあったのだ。二つの派の主張が、初めて、同じ一点で重なった。誰も、その重なりを、口に出しては言わなかったが。


「……言祝さん。一つ、確認です。俺たちの任務は『更新交渉の代理』だ。だが今の話で、任務の本質が変わった。これは契約の更新じゃない。――万年働いた人の、引き継ぎ案件だ。そういう理解で、いいですね」


「……ええ。ええ、その通りに、ございます。引き継ぎ、という言葉を。万年、我らは探しあぐねておりました。更新でも、救済でも、しっくり来なかった。……引き継ぎ。ええ、それです。それが、一番、正しい」


 言葉の大精霊が、人間の事務用語に、頭を下げた。妙な光栄だった。


「なら、方針を言う。引き継ぎ案件の鉄則は、一つだ。『辞める人が、安心して辞められる形を、先に作る』。様式第一号から、うちはずっと、それでやってきた。相手が四天王でも、魔王でも――万年の立会人でも、変えるつもりはない」


「じゃが、事務屋どの。代われぬ、と申しました。差し替えは、契約の結び直し以外に道がなく、結び直しには、閉門派の白紙が立ちはだかる。……万年、解けなかった詰みにございますぞ」


「万年解けなかった詰みなら、うちの得意分野です。三百年物と三十年物で、二勝してるので。……それに、言祝さん。あんたたちは万年、『契約の中で』解こうとしてきた。うちは、契約の外から来た。外から来た者の仕事は、内側の常識を、一つずつ、疑い直すことです。今日から、始めます」


 大言壮語、と言われても仕方のない啖呵だった。だがこの世界では、言葉は本気の分だけ、重さを持つ。俺の言葉が具現化して何かの形になったかは、確かめなかった。ただ、言祝の花びらが、数枚、金色を取り戻して、宙に浮いた。


 言祝が、ゆっくりと顔を上げた。落ちた花びらの向こうで、老いた光が、微かに、色を取り戻していた。


 会談の後、うちの四人は、しばらく無言で歩いた。口を開いたのは、ミラベルだった。「……私の詠唱もさ。九分五十一秒も、十三分も、全部、あの人の上に建ってたんだ。私、知らないで、進捗百とか、騒いでた」。誰も、慰めなかった。慰めの言葉が、この世界では形を持ってしまうからではない。慰めより先に、やることがあるからだ。レーヴェが、全員の顔を見回して、言った。「決まりだね。この依頼、日当の額とか、もう関係ない」。関係ないことはない(日銭は日銭だ)が、言いたいことは、全員同じだった。


 会談が終わりかけた時、法務精霊が一人、間に駆け込んできた。彼は言祝に何事かを耳打ちし、言祝は目を見開き、それから、俺たちに向き直った。


「……歴史を背負う者たちよ。原本の間から、言伝にございます。――あの方が。立会人どのが、『話がしたい』と。……万年で、初めての、お申し出にございます。お相手のご指名は」


 光の花びらが、一枚、ふわりと俺の前に落ちた。


「――『あの、事務屋どのを』と」


 あの、が付いていた。万年の沈黙の人の指名に、あの、が。俺は上着の襟を正した。三年間で一番、丁寧に。

次回「第9話 名のない人」は、10月26日(月)18時30分更新です。

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