第18話 万年の疲れ
前回:「第17話 一緒に黙る」
◆記録係、リドに戻る。滞在二十日目。
朝、レーヴェが差し出した一枚の紙を、俺たちは、囲んだ。
『疲』
一文字だった。だが、その一文字の重さを測り違える者は、この場にいなかった。白紙で万年を貫いた沈黙が、初めて漏らした、自分の言葉。閉門派の主張書二百枚分より、いや、俺の書いたどの書面より、重い一枚だった。
「……疲れた、って」ミラベルが、小さく言った。「そりゃ、疲れるよ。万年だよ。万年、これを」
朝の光の中で見るその一文字は、夜のレーヴェの話で聞くより、さらに深かった。墨の色が、本当に、違うのだ。俺たちの朝の計測のどの墨より、濃い。万年、言葉を仕舞い続けた者の一文字は、存在の濃度が、桁違いだった。
「この一枚、どうする」レーヴェが聞いた。「協議の記録に、載せる?」
「載せない」俺は、即答した。「これは主張書じゃない。個人の手紙だ。宛先は、お前だ、レーヴェ。一晩、隣で黙った奴への。……協議で使ったら、この一文字は、二度と続きを書いてもらえなくなる」
全員が、頷いた。紙は、レーヴェが預かった。彼女はそれを、砥石と同じ布に包んで、懐に仕舞った。彼女の一番大事なものの、置き場所である。
これを、の意味を、俺たちはその日の帰路で、目の当たりにすることになった。
荒野を抜ける道の途中。何の前触れもなく、俺たちの行く手の空き地に――地面が、盛り上がった。灰色の若木が、めきめきと音を立てて、生えてくる。生えた端から、色が抜け、枝が捩れ、そして、枯れた。生まれながらの、枯木。囁きが、聞こえた。若い女の声だった。
『――大丈夫、絶対に間に合わせるから。』
「……今」名代の精霊が、沈痛に言った。「今この瞬間、世界のどこかで、一つ、破られたのです。荒野の木は、こうして……日に、幾千と」
幾千。日に、幾千。
そして、佇む夜が、動いた。シジマは、生まれたばかりの枯木のもとへ、静かに歩み寄り、その前に、立った。何もしない。何も言わない。ただ、立って、聞いた。生まれたての枯木の、張り詰めた囁きが――ひとしきり軋いて、それから、ふ、と息を吐くように、和らいだ。
聞き届け、だった。エルシーが枯木にしていたのと、同じことを。ただし、こちらは万年、日に幾千、一本も、聞き流さずに。
「……昨日の夜、分かったんだ」レーヴェが、掠れた声で言った。「あの人、全部、受けてる。一本ずつ。誰にも頼まれてないのに。……あの『疲』はさ、弱音じゃないよ。万年働いた人の、正確な、業務報告だ」
帰路の残りを、俺たちは、ほとんど喋らずに歩いた。喋らないことが、この数日で、苦ではなくなっていた。沈黙には、種類がある。気まずい沈黙、疲れの沈黙、そして――隣にいる、という沈黙。シジマの隣を万年ぶりに歩いた俺たちは、三つ目の沈黙の使い方を、少しだけ、覚えて帰った。
業務報告。その言葉で、俺の中の何かが、音を立てて繋がった。閉門派の白紙。立会人の擦り切れ。荒野の聞き届け。この世界の万年は、二人の――言葉を書いた者と、言葉を聞き続けた者の、二人分の、無給の超過勤務でできている。なら、俺の書くべき新契約の正体も、決まってくる。あれは更新契約でも、和平条約でもない。万年分の労働の、精算と、引き継ぎと、再発防止。俺の一番の得意分野じゃないか。
*
大書庫に戻ったのは、その二日後だった。
帰還の報告に、原本の間へ立ち寄った。灰色の立会人は、いつもの場所に立っていて、俺たちの顔を順に見て、視察の首尾を問うた。話が、シジマの一文字に及んだ時――立会人の薄い輪郭が、微かに、揺れた。
「……『疲』と。……そうですか。あの方が」
立会人は、原本の台座に、視線を落とした。そして、ぽつりと、様式の外の話を始めた。
「あの方はね、昔は――よく喋る方だったのですよ」
「……シジマさんが?」
「ええ。契約より前の時代から。祝いの言葉は言祝に、弔いと慰めの言葉はシジマに、と言われたほどの。人の悲しみに寄り添う言葉を、誰よりも多く持った精霊でした。あの祭壇の時代、十五分の祈りを一番熱心に聞いていたのも、あの方です。……それが、黙ったのは」
立会人は、自分の、蠢く墨に封じられた第一行を、見た。
「――私の名が、ここに納まった日からです」
部屋の空気が、止まった。
「契約が成って、私は名を失った。するとあの方は、私のもとへ通うようになり……そして、気づいたのです。名のない者の隣は、言葉の使いにくい場所だと。悼む言葉も、慰める言葉も、名を呼べない相手に向けると、どれも、名の不在を撫でてしまう。呼びかけの一つ一つが、『あなたには名がない』と、突きつけてしまう。……あの方は、悩んで、悩んで、それから、決めたのです」
薄い口元が、微かに、笑った。泣くのと同じ形で。
「――私に付き合って、喋らなくなったのですよ。名のない者の隣で、名を呼ぶ言葉を使うのは、残酷だからと。……月に一度、万年。あの方は、何も言わずに、隣に立ちに来てくれる。言葉の世界で一番言葉の巧かった精霊が、私一人のために、一番不便な優しさを、選んだ。……荒野の聞き届けを引き受けたのも、その頃です。どうせ言葉を仕舞うなら、誰も引き受けない仕事の役に立てよう、と」
「では、閉門の主張も」エルシーが、静かに問うた。「門を閉じたいのは、人間が憎いからでは、なく」
「……さて。あの方の心の中は、私にも、分かりません。ただ、一つだけ。閉門派の主張が固まったのは、この百年です。私の輪郭の薄れが、速くなった――ちょうど、その頃から」
門を閉じる。契約を終わらせる。それは精霊界の飢えの解決策の顔をして、その実――友を契約から解放する、たった一つの残された手段でもあった。契約が終われば、担保も、要らなくなる。名は戻らずとも、せめて、消える前に、自由に。
沈黙の正体は、優しさだった。
万年の無言は、拒絶でも諦めでもなく――名を失った友の隣に立ち続けるための、世界で一番寡黙な、寄り添い方だった。
誰も、しばらく、口を開けなかった。閉門派の白紙の、本当の宛先が、ようやく見えた。あの白紙は、人間への絶望の形をしていたが、根っこは――友を万年、名のないままにしておく契約への、声にならない抗議だったのだ。「言葉の世界を閉じよ」の主張の底に、「友を、これ以上、擦り減らせるな」が、眠っている。レーヴェの拾った一語が、蘇った。待ってる深さ。あの湖の底で、あの方が万年待っているのは、多分――友の名を、また呼べる日だ。
エルシーだけが、胸元のひびの入った聖印を、両手で、そっと包んでいた。あのひびは、万年の何かを視ようとして、入ったひびだ。視ようとしたものの正体が、今日、分かった。器の割れそうなほど大きい何かは――憎しみでも、絶望でもなく、万年分の、行き場のない優しさだったのだ。
*
その夜の、小窓行きの手紙。
『滞在二十二日目。濃度、八割一分。
本日、言葉を使わないことで優しさを表す方の、その理由を知りました。
思い出したのは、あなたの走り書きです。判を捺す手を奪われた人が、書類の余白に忍ばせた一行のこと。手続きの顔をした白湯のこと。灯台の灯りのこと。
優しさは、いつも、使える形の中で、いちばん不便な道を選ぶのですね。
……あなたに、早く、この話をしたいです。手紙では、三枚あっても、足りませんので。』
(第3章・了 →第4章「名前のない立会人」へ続く)
次回「第19話 立会人の万年」は、11月5日(木)18時30分更新です。




