揺るがない心
天王寺神社の境内を包む結界は、まるで外界そのものを拒絶するように静まり返っていた。
六花は何度目かになる結界へと手を伸ばす。
淡い霊力を流し込む。
——パァンッ。
乾いた音とともに光が弾け、六花の身体は数歩後ろへ押し戻された。
「……っ。」
手のひらがじんと痺れる。
それでも諦めず、もう一度結界へ触れようとした。
その姿を見つめていた天王寺遥は、理解できないというように眉を寄せた。
「……どうして。」
その声には怒りよりも、困惑が滲んでいた。
「どうして、出ようとするんですか?」
六花は振り返る。
その表情は真っ直ぐだった。
「だって。」
少し笑って答える。
「鳳ちゃんたちに会わなきゃ。」
その一言が、遥の胸を締め付けた。
(まただ。)
(また、あの四霊だ。)
千年前もそうだった。
桜は、いつも四霊たちの名前を呼んでいた。
嬉しそうに。
楽しそうに。
心から信頼して。
その光景が、遥――いや、天王寺家の祖先の記憶を刺激する。
「……何度も言っているでしょう。」
声が少し強くなる。
「四霊たちは、過去の貴方の命を奪った者たちです。」
「そんな奴らといたら、また貴方は命の危険に晒される。」
「だから私は——」
「違う。」
六花は遥の言葉を遮った。
「私は私。」
その瞳には迷いがなかった。
「過去なんて知らない。」
「桜さんのことも、千年前のことも。」
「でもね。」
一歩前へ進む。
「たとえ危険に晒されたとしても。」
「私は、自分が信じたい人を信じる。」
その言葉は静かだった。
だからこそ重かった。
「……。」
遥は言葉を失う。
「私は天王寺さんよりも。」
少し照れくさそうに笑う。
「鳳ちゃんたちのことをいっぱい知ってるもん。」
その笑顔が。
遥には、桜そのものに見えた。
(変わらない。)
(何一つ。)
(また、あいつらを選ぶのか。)
胸の奥で、何かが軋んだ。
その時だった。
遥の背後で黒い霧がゆっくりと揺らぐ。
「……やはり。」
低く響く声。
「貴女は変わりませんね。」
朧だった。
人の形をしているようで、していない。
輪郭は黒い霧に溶け、瞳だけが異様なほど冷たく光っている。
「四霊たちに優しさなどありません。」
その声には、人の心を侵すような響きがあった。
「彼らは、自分たちに利益があることしかしない。」
「貴女は、まだ分かっていない。」
六花はその存在をじっと見つめる。
(この人……。)
初めて会ったはずなのに。
なぜか、嫌な気配だけははっきり分かる。
「……あなたは。」
ゆっくり問い掛ける。
「何者なの?」
黒い影は小さく笑った。
「名は朧。」
「神でもない。」
「妖怪でもない。」
「人でもない。」
「どこにも居場所を持たぬ存在です。」
その声には、自嘲とも諦めともつかない響きが混じっていた。
「ただ一つ。」
「四霊には深い恨みがあります。」
六花は遥を見る。
次に朧を見る。
二人の霊力を感じ取る。
そして、小さく息を呑んだ。
(やっぱり。)
「……だから。」
朧が目を細める。
「何か気付きましたか?」
六花は静かに頷いた。
「天王寺さんの力の中に。」
「あなたの霊気が混じってる。」
遥が驚いて朧を見る。
朧はわずかに口角を上げた。
「さすがですね。」
「巫女の力は本物だ。」
「そこまで見抜きますか。」
六花は遥から視線を逸らさない。
「だから。」
「天王寺さんに力を貸してるんだよね。」
「ええ。」
朧はあっさり認めた。
「私と天王寺は同じ目的を持っています。」
「互いに利益が一致した。」
「だから協力しているだけです。」
その言葉に、六花は胸が苦しくなる。
(利用してる……。)
そんな感覚が拭えなかった。
朧は続ける。
「ですが。」
「天王寺の言葉は真実です。」
「四霊がしたこと。」
「私が証人になりますよ。」
「千年前。」
「彼らのせいで、桜は命を落とした。」
結界の中が静まり返る。
遥は苦しそうに拳を握る。
六花は黙って話を聞いていた。
朧の言葉は巧妙だった。
すべて嘘とは思えない。
だからこそ恐ろしい。
本当の出来事に、自分たちの解釈と悪意を織り交ぜ、聞く者の心を揺さぶろうとしている。
六花はゆっくり目を閉じた。
鳳凰。
霊亀。
麒麟。
応龍。
四人と過ごした日々が頭の中に浮かぶ。
一緒にご飯を食べたこと。
修練をしたこと。
笑い合ったこと。
自分が落ち込めば励ましてくれたこと。
危険な時は、いつも真っ先に守ってくれたこと。
その一つ一つが、六花の心を支えていた。
ゆっくり目を開く。
「……確かに。」
朧を見る。
「千年前に何があったのか、私は知らない。」
「だから、あなたの話が全部嘘だとは言えない。」
遥の瞳に希望が宿る。
だが、その次の言葉が二人の期待を打ち砕いた。
「でも。」
六花は真っ直ぐ微笑んだ。
「だからって、鳳ちゃんたちを疑う理由にはならないよ。」
遥の表情が固まる。
「人には理由がある。」
「神様にも理由がある。」
「きっと、あの四人にも、そうするしかなかった理由があったんだと思う。」
その言葉に、朧の瞳がわずかに揺れた。
「私は。」
六花は胸に手を当てる。
「自分の目で見て、自分の心で感じたことを信じる。」
「誰かに教えられた過去じゃない。」
「今、一緒に笑ってくれた人たちを信じたい。」
その笑顔は穏やかだった。
そして、決して揺るがない強さがあった。
朧は静かに目を細める。
(……桜。)
(いや。)
(六花。)
(千年経っても、その心だけは変わらないのか。)
その優しさが。
その信じる強さが。
朧には何よりも眩しく、そして憎らしかった。




