四霊達の過去~悪の影
夜の森は静かだった。
風が木々を揺らしても、鳥は鳴かない。
獣さえ近寄らぬ森の奥。
そこには、一つの”異質”が存在していた。
その姿は人にも見える。
妖にも見える。
神にも見える。
だが、そのどれでもない。
名を──朧。
その存在は、この世のどこにも属していなかった。
人は恐れた。
妖は近寄らなかった。
神は見向きもしなかった。
ただ、存在するだけ。
何百年という時間を、誰にも認識されることなく過ごしてきた。
そんな朧が唯一望んだもの。
それは――神になることだった。
⸻
「……我も、神になれるか。」
その問いを口にした日のことを、朧は今でも鮮明に覚えていた。
目の前には四霊。
鳳凰。
霊亀。
麒麟。
応龍。
人々から崇められ、信仰される神獣たち。
朧は羨望の眼差しで四霊を見つめていた。
自分もあの場所へ行けると思っていた。
努力すれば。
力を得れば。
認められれば。
だが――。
鳳凰は静かに首を横へ振った。
「無理だ。」
その言葉は、あまりにも冷たかった。
霊亀が穏やかに続ける。
「神とは力ではない。」
「人の祈りがあって初めて神となる。」
麒麟も静かに告げる。
「神には役目がある。」
「人を導き、人を守る存在じゃ。」
最後に応龍が朧を見据えた。
「……お前には、その資格がない。」
その瞬間。
何かが壊れた。
心だったのか。
理性だったのか。
朧自身にも分からない。
ただ一つだけ、確かな感情が胸を満たした。
――憎い。
四霊が憎い。
神という存在が憎い。
世界そのものが憎い。
「資格……だと?」
朧は笑った。
乾いた笑いだった。
「生まれながら神である貴様らが。」
「何を知る。」
誰にも答えは返ってこない。
鳳凰たちは、それ以上言葉を重ねることなく、その場を去った。
朧だけが残された。
森の中で、一人。
その時だった。
朧は悟る。
「……そうか。」
「この世界は最初から我を否定していたのか。」
神にもなれない。
妖怪でもない。
人でもない。
ならば、自分は何なのか。
答えは簡単だった。
「ならば。」
「我は、この世界の悪意になろう。」
その瞬間だった。
朧の身体から黒い瘴気が溢れ出した。
怒り。
嫉妬。
憎悪。
絶望。
あらゆる負の感情が混ざり合い、一つの存在へと変わっていく。
朧はもう、自分が何者なのかなどどうでもよかった。
「神になれぬのなら。」
「神を壊せばいい。」
「四霊を壊せばいい。」
「貴様らが守るものを、全て壊せばいい。」
その日から。
朧は悪意そのものとなった。
⸻
それから幾年が過ぎた。
朧は姿を消し、四霊たちを影から見続けていた。
そして出会う。
一人の青年に。
天王寺。
小さな神社へ通い続ける神主見習い。
桜を見る目だけで分かった。
「恋か。」
実に愚かだ。
人間とは弱い。
たった一人を愛するだけで、心が揺らぐ。
振られただけで苦しむ。
諦められずに笑う。
滑稽だった。
だからこそ、利用価値がある。
朧は木陰から天王寺を見つめる。
桜へ向ける優しい眼差し。
失恋を隠す笑顔。
そのすべてが、朧には”弱さ”にしか見えなかった。
「……見つけた。」
口元がゆっくりと歪む。
「四霊を壊す鍵。」
「桜を壊す鍵。」
「そして、神を絶望させる駒。」
天王寺は何も知らない。
自分が見られていることすら。
朧は姿を現さない。
まだ、その時ではない。
心が折れかけた時。
迷いが生まれた時。
その瞬間こそ、甘い言葉は最も深く染み込む。
「人とは実に愚かだ。」
「だからこそ、操りやすい。」
黒い瘴気が森を満たしていく。
鳥たちは逃げ。
木々は枯れ。
月明かりさえ、その場所を照らすことを拒む。
朧は静かに笑った。
その笑みは、もはや生き物のものではなかった。
「待っていろ、鳳凰。」
「待っていろ、霊亀。」
「待っていろ、麒麟。」
「待っていろ、応龍。」
「貴様らが千年かけて築く絆を──我が、この手で壊してやる。」
その宣言は、誰にも届かない。
だがその夜から、四霊と桜を巡る悲劇の歯車は、音もなく回り始めた。




