壊れた場所から始まる師弟
壊れた場所で、学びが始まる。
ロイズは気づいていない――
自分がすでに、何かを変え始めていることに。
洞窟に入ると、苔に覆われた古い祠の前で、カリナは足を止めた。
「ここ」
振り返らずに言う。
「師匠が……私を鍛えた場所」
小さく息を吸い、続けた。
「……壊れた場所でもあるけど」
石造りの祠は半ば崩れ、内部には人が暮らしていた形跡が残っている。
ロイズは無意識に背筋を伸ばした。
白髪の魔法使い――ウィリアムは、祠を見つめて静かに言った。
「お前は裂け目が見える。だが、見えるだけでは縫えぬ」
「裂け目の向こうには、この世界を動かす流れがある」
「……世界律だ」
その言葉に、カリナがすぐ横から口を挟んだ。
「師匠の説明は難しいから、私が噛み砕いてあげるわ」
ウィリアムは、わずかに苦笑する。
「お前は昔から、余計なことを言う」
「だって、師匠の言葉は難しいんですもの」
カリナは肩をすくめた。
「世界律は、すべての物事の根源。そう考えればいいわ」
そのやり取りを見ながら、ロイズはいつの間にか肩の力が抜けていた。
「世界律そのものに形はない。
でも、巨大な獣のような姿で現れるんじゃないかって考える学者もいるの」
「暴れたらひとたまりもなさそうだな」
「そうね」
カリナは急に表情を消して頷いた。
祠の奥で、ウィリアムは大地に手をかざした。
次の瞬間、地の底から低い共鳴音が響く。
――ごう。
ロイズの視界が、歪んだ。
頭の奥を直接掴まれたような感覚。
理解ではなく、痛みとして世界の流れが流れ込んでくる。
「っ……!」
ロイズは頭を押さえ、膝をついた。
その体を、即座にカリナが支える。
「無理しないで」
声は冷静だったが、手がわずかに震えている。
ウィリアムは、静かに言った。
「逃げてもよい。世界律は、拒めば拒むほど痛みを増す」
ロイズは、歯を食いしばった。
「……平気、です」
息が荒い。
カリナの指が、ぎゅっとロイズの腕を掴む。
「……嘘を、言わないで」
絞り出すような声だった。
「修行なんだから、無理をしないで……師匠は、まだ……」
言葉が、そこで途切れた。
ウィリアムは歩み寄り、そっとカリナの肩に手を置く。
「わしは、かつてそれを教えなかった」
老人の声が、わずかに沈む。
「逃げずに耐えろと。そうすれば越えられると、信じておった」
カリナは目を伏せた。
ウィリアムは、ロイズに視線を向ける。
「ここの裂界は、最後の一縫いで閉じる。修行には適していると思ったのだ」
そして、静かに続けた。
「だが、無理に耐える必要はない。
今日からは、お前たち二人で共に学ぶ。
わしの残りの時間で、できる限りのことを教えよう」
その言葉に、カリナはロイズを見た。
淡い緑の瞳が、ほんの少し和らぐ。
「私が姉弟子だから……よろしくね」
一拍置いて、続ける。
「次の子」
ロイズは照れたように視線を逸らし、それでも頷いた。
「俺は……じぃ、ウィリアムが君を弟子にしてくれてよかった」
少し考えてから、付け加える。
「村にこんな可愛い娘、いなかったし」
カリナの目が、揺れた。
ウィリアムは、そんな二人を見て静かに息を吐いた。
「ここにはまた来ればよい。無理をせず、少しずつな」
それから、奇妙な共同生活が始まった。
祠を拠点に、カリナはロイズに魔力の流れの感じ方を教える。
「目で見ちゃだめ。皮膚で受け止めるの」
ロイズが顔を歪める。
「……痛い」
「でしょう?」
カリナは淡々と言った。
「痛みを知れば、世界の縫い方もわかる」
その教え方は、やはりどこか歪んでいた。
ロイズが苦しそうに顔を歪めると、カリナの表情が一瞬だけ曇る。
それでも、彼女は教えを止めなかった。
「村では裂界を見たら逃げろって言われてたからさ」
ロイズは頭を押さえ、それでも立ち上がった。
少し離れた場所で、老人がそれを見守る。
「……性急すぎる」
小さく呟く。
「だが、わしがカリナに施した教え方だったな」
夜。
ロイズが一人で息を整えていると、カリナが小さな壺を差し出した。
「薬草」
短く言う。
「これ、痛みがひどい時に使って。……私は、必要なくなったけど」
ロイズは、その言葉に引っかかった。
「……カリナ」
薬草を受け取りながら、静かに言う。
「ウィリアムと別れた後も、誰かを助けようとしてたんだな」
カリナの動きが止まる。
「……そんなこと」
否定しかけて、言葉を飲み込んだ。
ロイズが壺の中を覗き込むと、薬草の束がびっしりと詰められていた。
とても一人で使う量ではない。
「カリナはもっと自分を大事にした方がいい」
少女の目が、大きく揺れた。
(そんなこと、初めて言われた……)
自分のことなど、考えたこともなかった。
壊れてからも、誰かのために薬草を集めていた。
けれど、自分自身を心配してくれる人がいるとは思っていなかった。
森の中で、風が葉を揺らす。
カリナは、視線を逸らしたまま小さく言った。
「……姉弟子だって言ったでしょ。気安くしないで」
拒絶する言葉。
だが、その声はロイズには照れ隠しのように聞こえた。
カリナは薬草の壺を抱え直す。
ほんの少しだけ、その手から力が抜けていた。
壊れた彼女が、もう一度誰かと向き合えるようになるのか。
二人の師弟関係を見守っていただければと思います。




