失われた誇りを纏って
カリナが纏う、かつての魔法使いの法服。
失われたものは、もう戻らないのか。
それでも、彼女は再び歩き始める。
修行が始まってから、ひと月が過ぎた。
最初の頃、世界を流れる魔力に触れるたび、ロイズは頭を抱えてうずくまっていた。
皮膚の内側を無数の針で刺されるような痛み。
自分の身体が世界の流れに引きずられ、形を失っていくような感覚。
それでも、ロイズは逃げなかった。
カリナに教えられた呼吸を繰り返し、魔力の流れを無理に追いかけず、皮膚で受け止める。
少しずつ、世界の流れに呑まれず、自分の感覚を保てるようになっていった。
そして今日。
「……あれ?」
ロイズは目を開けた。
いつものように世界の流れを受け止めていたはずなのに、頭痛も吐き気もない。
「どうしたの?」
隣で見守っていたカリナが尋ねる。
「痛くないんだ」
「痛くない?」
「うん。前は、こうしているだけで頭が割れそうだったのに」
ロイズは自分の手を見つめた。
そこに流れる魔力の気配は、以前よりもはっきりと感じ取れる。
けれど、もう身体を押し潰すような痛みはなかった。
「慣れるものではないのに」
カリナの呆れた声に、ロイズは苦笑した。
少し離れた場所で二人を見ていたウィリアムが、静かに杖を地面へ突いた。
「よく続けたな、ロイズ」
ウィリアムはロイズの目を見た。
「じゃが、それだけでは裂界は縫えん」
「次は何をするの?」
「ロイズにはきっかけが必要だ。ここで学んだことを、外の世界で試す」
「旅に出るの?」
「そうだな。そろそろ準備を始めるとしよう」
ウィリアムはそう言って、洞窟の奥へと歩き出した。
残されたカリナは、少し複雑そうな顔でその背中を見送る。
「……もう次の段階なのね」
「カリナ?」
「なんでもない。ほら、片付けるわよ」
カリナは立ち上がり、ロイズの肩についた土を払った。
その手つきは、いつの間にか以前より自然になっていた。
◆
その日の午後。
ウィリアムは旅に必要な道具を広げていた。
古びた地図、薬草を詰めた小袋、保存食。それに、いくつかの魔道具。
ロイズは興味深そうに道具を眺めていたが、ふと壁に掛けられた衣服に目を留めた。
「それ、何?」
「カリナの法服だ」
「カリナの?」
「聖環国オルビスで仕立ててもらったものだ。旅に出る前に、着替えておくとよい」
呼ばれたカリナは、壁に掛けられた衣服を見て眉を寄せた。
「今の服で十分です。どうせ旅に出れば汚れますし」
「よくない」
ウィリアムの返答は短かったが、僅かに悲哀を帯びた。
「私を置き去りにした時と、同じ目をしていますね」
「あの時は最善だったと、今でも思っておる」
そのやり取りを聞いていたロイズが、ぱっと顔を明るくする。
「カリナさん、俺も見たいな。
きっと綺麗な魔法使いの衣装なんだろう?」
悪気のない、まっすぐな言葉だった。
カリナはロイズを見た。
しばらく、その顔を見つめていた。
「……そう」
それだけ答えると、彼女は再び視線を落とした。
喜ぶでも、照れるでもない。
しばらくして、彼女はぽつりと付け加えた。
「ロイズが見たいなら……」
やがて、カリナが小屋の中から姿を現した。
淡い銀白色の長衣に、深い青の外衣。
袖口と裾には銀糸の繊細な紋様が走り、
胸元には青い宝石を収めたアミュレットが据えられていた。
光を受けた生地は、白から淡い青へと静かに色を変える。
胸元の青い石が、木々の隙間から差し込む陽光を受けてかすかに輝いた。
ロイズは、思わず息を呑んだ。
「……すごい。本物の魔法使いだ」
「村では、私が一番だった」
カリナは淡々と答えた。
銀色の前髪の下で、ライトグリーンの瞳がわずかに揺れる。
喜びも、誇りも、そこには見えなかった。
ただ、胸元のアミュレットに一度だけ目を落とすと、
彼女は何事もなかったかのように顔を上げた。
「ロイズ。そこにある剣を取って」
カリナの視線の先には、木の壁に立てかけられた一本の剣があった。
使い込まれた鞘には細かな傷が刻まれている。
飾り気のない、ごく実用的な剣だった。
「いいの?」
ロイズはウィリアムとカリナを交互に見た。
これから自分も剣を持って旅に出る。
その事実が、ようやく現実味を帯びてきたのだ。
カリナは小さく頷いた。
「……行きましょう」
そう言って、彼女は小屋を振り返ることなく歩き出した。
その声は、着替える前と何も変わっていなかった。
◆
森の中には、木漏れ日が斑に落ちていた。
湿った土を踏む音と、頭上で枝葉が擦れ合う音。遠くでは鳥が鳴いている。
カリナは先頭を歩くウィリアムの背中を見つめながら、
どこか納得のいかない様子で口を開いた。
「師匠、どちらに向かわれるのですか?
私のときは、祠での修行だけで半年もかけたのに……」
カリナの声には、わずかな不満が混じっていた。
ウィリアムは歩みを緩めることなく答える。
「ロイズには実戦の方が向いておる」
「私も、もっと教えたかったのに」
カリナは隣を歩くロイズに目を向けた。
その横顔には、先ほどまでの虚ろな表情とは違う、
ほんの少しの悔しさが浮かんでいた。
もっとも、それも一瞬のことだった。
すぐにいつもの無表情へと戻る。
「ああ。引き続き面倒を見てやるといい」
ウィリアムは、まるで当然のことを告げるように言った。
カリナが目を瞬かせる。
「……いいの?」
「お前も学ぶことは、まだあるだろう」
ウィリアムはそれ以上説明しなかった。
カリナは何か言いかけて、口を閉じる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうね」
その声には、諦めとも納得ともつかない響きがあった。
ロイズは二人のやり取りを聞きながら、首を傾げた。
二人はどれだけの間、旅を続けてきたのだろう。
「実戦って、裂界に向かうの?」
ロイズが尋ねると、ウィリアムは首を横に振った。
「いや、魔獣討伐だ。裂け目から溢れた魔獣は討伐せねばならん」
その言葉に、ロイズは森の奥へと視線を向けた。
木々の間には薄い霧が漂い、陽光の届かない場所は深い影に沈んでいる。
どこか光が歪んでいるようにも見える。
そう考えると、手のひらにじわりと汗が滲んだ。
「そうか。魔獣も、じっ……ウィリアムが連れてくるわけじゃないもんな」
言いかけた言葉を、ロイズは慌てて飲み込んだ。
ウィリアムが足を止め、ゆっくりと振り返る。
「……もう、爺さんでよい」
呆れたような声だった。
カリナの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
それが笑みだったのかどうか、ロイズには分からなかった。
三人は再び森の出口を目指した。
やがて、木々の隙間から明るい光が差し込んでくる。
森を抜けようとした、そのときだった。
ウィリアムが不意に足を止めた。
「そこだ」
装いが変わっても、彼女の心がすぐに戻るわけではありません。
それでも、ロイズの言葉に応じて一歩を踏み出したことには、
大きな変化です。




