壊れた弟子
魔王には、ロイズより前に弟子がいた。
彼女は壊れた。
でも、まだここにいる。
村外れの森は、朝日が差し込んでも薄暗かった。
木々の間を抜ける光が揺らいで見えるのは、
この場所の魔力の流れが、どこか歪んでいるからだ。
ウィリアムは、杖をつきながら静かに歩いていた。
「ここへ来るのは……久しいな」
魔力が乱れ、木々がざわめく。
ロイズは、思わず足を止めた。
(これは……裂け目じゃない)
(でも、人間の気配でもない)
何かが、欠けている。
そう感じた次の瞬間――森の奥から声がした。
「師匠」
澄んでいるのに、どこか冷たい声だった。
「どうして……こんなところに」
森の奥から、小さな裂け目のような気配が滲み出る。
現れたのは、ロイズより少し年上に見える少女だった。
白銀に近い淡い髪に、ライトグリーンの瞳。
整った顔立ちだが、その目の奥には、生きているはずの光がなかった。
何かを失ったまま、歩き続けている者の目。
ロイズは、思わず息を呑む。
ウィリアムは静かに言った。
「……久しいな、カリナ。お前は、まだここにいたのか」
カリナは微笑んだ。
それは、仮面をかぶったように固定された笑みだった。
「ええ。だって、待っていましたから」
一歩、近づく。
「師匠……私を、置いていったでしょう?」
ロイズの背筋に、冷たいものが走る。
ウィリアムは、目を伏せた。
「すまぬ。お前を……救えなかった」
「救えなかった?」
カリナは首を傾げ、優しく問い返した。
「違いますよ、師匠。私は……救いたかっただけです」
声音は穏やかだった。
だからこそ、その歪みが際立つ。
ロイズは、思わずウィリアムの袖を掴んだ。
「じぃ……ウィリアム。この人、誰なんだよ」
老人は答えない。
カリナが、ロイズへと視線を向けた。
魂の奥を覗き込むような、冷たい目。
「あなたが……次の子、なのね」
ロイズは、言葉を失う。
カリナは微笑んだ。
「かわいそうに。あなたも……壊れてしまうのに」
「やめろ」
ウィリアムの声が、低く森に響く。
「それは……お前のせいではない」
カリナは、不思議そうに首を傾げた。
「師匠。まだ、私を弟子だと思ってくれるんですか?」
泣いているようで、笑っているようで、行き場のない感情が滲む問いだった。
ロイズは、その空気に耐えきれず、拳を握る。
「……俺は、ウィリアムを信じる」
声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「でも……君のことも、ちゃんと知りたい」
カリナは、じっとロイズを見つめる。
その瞳に、ほんのわずか――消えかけていた人間の光が戻った。
「……そう」
小さく息を吐く。
「なら、ついてきなさい。
あなたが壊れるかどうか……確かめてあげる」
背を向け、森の奥へと歩き出すカリナ。
ウィリアムは、深く息を吐いた。
「あれは……わしが壊してしまった子だ。深淵に覗かれてしまった」
深淵。
ロイズの頭に、裂け目の奥で横切った影が浮かんだ。
あの黒い、底のない何か。
(あれに、覗かれたら――)
背筋の震えを意志で抑え、二人の後を追う。
カリナは、振り返らずに言った。
「あなた、師匠の《次》なんでしょう?」
(次……?)
「よくわからないけど、弟子同士なんだよな。
爺さん、何にも喋らないから知らなかったんだ」
ロイズは戸惑いながら言った。
カリナは木々の間に手をかざす。
魔力の流れが乱れ、空気が震え、鳥が一斉に飛び立った。
「ここよ」
冷たい声だった。
ロイズは確かに感じていた。
(この奥に裂け目がある。だけど、不思議な感覚だ……)
「私に見せて。あなたが裂け目の前に立っても、壊れずにいられる魂なのか」
「まだ、早い」
ウィリアムが即座に制止する。
「裂界は試練などではない。お前に課すべきではなかったのだ」
カリナは、人形のように微笑んだ。
「師匠がまた弟子を取った理由を、私自身の目で確かめたいのです」
その声には、わずかな感情が滲んでいた。
「《裂界縫合》には必要でしょう。
適性があるから連れて来られたのでは?」
ロイズは、震えながら一歩前へ出た。
老魔法使いが、ロイズの肩に手を置く。
「無理をするな。カリナに挑ませたのは……わしの罪だ」
ロイズは首を振った。
「でも、俺にはウィリアムが誰かを傷つけようとしていたとは思えない。
あれだけ村の連中にひどいことを言われても、言い返さなかったんだから」
その言葉に、カリナの瞳が揺れた。
壊れた心の奥に残った、かすかな人間の光。
カリナは魔力の乱れを収め、ロイズに歩み寄る。
「……あなた、優しいのね」
静かな声だった。
「でも愚かよ。あれを見た後で、同じことが言えるかしら?」
ロイズは、何も言えなかった。
カリナはウィリアムに向き直る。
「師匠。この子は……私を姉弟子として見た」
そして、祈るように言う。
「だから……ちゃんと教えてあげて」
ウィリアムは、目を伏せた。
「わかっておる。二度と、同じ過ちは繰り返さぬ」
しばらくの沈黙の後、老人は続けた。
「わしが……逃げるなと言ったばっかりに」
その言葉に、カリナの表情がわずかに揺れた。
彼女は、その言葉を噛みしめるようにロイズを見つめる。
そして、少年に向かって微笑んだ。
その微笑みは、村の外れでウィリアムがロイズに見せたものと、よく似ていた。
「なら……私も、少しは手伝ってあげます」
カリナは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「壊れた弟子でも……役に立つことは、あるでしょう?」
森の奥で、魔力が静かに脈打った。




